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2007年6月10日 (日)

京都・新撰組ポタリング 2007.04.21

年月日/2007年4月21日

バイク/Peugeot VTT-205 MTB (Hard Tail)

目的/京都市内の新撰組ゆかりの場所を巡る。

ポイント/延伸された淀川南岸・楠葉~八幡の河川敷ロードの様相も確認。

内容/

4月21日(土曜日)の近畿は北部と南部が曇りのち雨で、中部のみ曇り時々晴れ。
従ってサイクリングは中部に限定。
いろいろ計画は有るのだが、この日はノンビリ・ポタリングで、京都の「新撰組」ゆかりの場所を巡ってみることにした。

自転車は街乗り用MTB「Peugeot VTT-205」を選択。
京都市内でポタリングしようとすると段差越えが多かったり、ダート,石畳の走行も有るし、狭い所の小回りも要求される。なので、サスペンジョン付きで太いセミスリックタイヤのMTBにしたわけ。

自宅を7:00ちょい過ぎに出発。
淀川北岸沿いを東進。枚方大橋で南岸に渡る。
楠葉ゴルフ場の所で、これまでは河川敷から土手の上の一般道の府道13号に移っていたのだが(下の写真の右の坂を上がる)、最近河川敷ロードが延長され、この日はその延伸された道の偵察を兼ねてそのまま先に進む(下の写真の左)。

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快適な道だ。菜の花が春のサイクリングにピッタシ。

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やがて二手に別れ(下の写真の左上)、左を進むと舗装路は無くなってダート(下の写真の左下)。

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右の坂を上がると府道13号(上の写真の右上)。大阪府と京都府の県境辺りで合流出来る。様子が分かった。

府道13号を走って御幸橋に到着(下の写真の左上)。

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次いで桂川沿いのサイクリングロードを走って(上の写真の右上と下段)、桂大橋東端に到着(下の写真)。

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京都市内の碁盤の目をウロウロしながら中京区・壬生へ。

そして「壬生寺」に到着。時刻は10:00ちょい前。
「新撰組」ポタリングの最初はやはりここから。

↓「表門」。

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↓正面に「本堂」。昭和37年に一度焼失して昭和42年に再建。

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「壬生寺」は奈良時代の創建の律宗の大本山。本尊は地蔵菩薩立像。
火災による焼失も有りながら再興され、最盛期は1300年(正安2年)に円覚上人が仏の教えを身振り・動作に仕組んだ「壬生大念仏狂言」を創始した辺りだろう。

↓「鐘楼」(左上),「水掛地蔵」(右上),「壬生寺会館」(左下),「阿弥陀堂」(右下)。

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壬生寺会館の建物の奥に「狂言堂(大念仏堂)」が有り、「壬生狂言」が催される。ちょうどこの日4/21から4/29まで「春の大念仏会」という壬生狂言の定例公開。午後からなのでパスしたが、いつか観てみたい。

↓・・・新撰組隊士!

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壬生寺のすぐ近くの「八木邸」「前川邸」が新撰組の屯所だったわけだが(のちに西本願寺に屯所を移転)、壬生寺境内は新撰組の兵法調練場に使われ、武芸や大砲の訓練が行なわれたという。

境内東に有る池の中の島は「壬生塚」と呼ばれ、新選組隊士の墓などが有る。
↓「阿弥陀堂」の奥に有る。

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↓堂を抜けると池。

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↓朱色の橋を渡って中之島に入る。

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↓橋を渡った正面に三橋美智也の歌「あゝ新撰組」の歌碑。

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↓歌碑を右に曲がって進むと右手に「新撰組顕彰碑」。

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↓正面に新撰組局長「近藤勇」(慶応4年(1868)4/25没)の胸像。

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↓胸像は昭和46年に俳優の故・上田吉二郎が芸歴53周年を記念して建てたもの。

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↓その向かって左隣に近藤勇の「遺髪塔」(右の碑)。

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↑その更に左隣には勘定方、河合耆三郎(慶応2年(1866)2/12没)の墓(左の墓碑)。帳簿で不始末を起こし、処刑されたといわれる。
墓碑は河合の親族が建立したもの。河合の切腹を聞いた親が大変怒り、新撰組が立てた墓とは別に息子を供養するために建てた立派な墓。
大河ドラマでは武田観柳斎に軍学の書物を買うための金を無断で貸したことが原因という設定だが、実は原因は謎である。近藤勇の愛妾の身請け交渉の不手際が原因という説も。

↓左手に隊士7名の合祀墓。

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阿比原栄三郎/文久3年(1863)4/6没。副長助勤。「阿比留鋭三郎」とも言う。病死したとも暗殺されたとも(大河ドラマと違う)。
田中伊織/文久3年(1863)9/13没。詳細不明の人物。水戸派で局長であった新見錦の変名であるという説も。
野口健司/文久3年(1863)12/28没。副長助勤。芹沢鴨らの水戸派の人物。新選組の隊規違反の罪で、前川邸で切腹死(大河ドラマと違う)。
奥沢栄助/元治元年(1864)6/5没。伍長。池田屋騒動で討死。
安藤早太郎/元治元年(1864)7/22没。副長助勤。池田屋騒動で深手を負い、死去したといわれている。
新田革左衛門/元治元年(1864)7/22没。平隊士。池田屋騒動で深手を負い、死去したといわれている。(上の安藤と同日って怪しい・・・??)。
葛山武八郎/元治元年(1864)9/6没。伍長。新選組の隊規違反の罪で切腹死したといわれている。

↓その左隣に「芹沢鴨」「平山五郎」の墓。

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芹沢鴨/文久3年(1863)9/18没。前身の浪士組筆頭局長。新撰組水戸派の首領。八木邸において土方蔵三らによって暗殺された。
平山五郎/文久3年(1863)9/18没。副長助勤。芹沢鴨らの水戸派の人物。芹沢鴨と共に八木邸で暗殺された。
僕は大河ドラマの設定の芹沢鴨が結構好き。悪い奴だが悪になりきれない。剣は強いが精神面が未成熟・・・わがままで子供っぽかったり、見栄っ張りだったり。

「阿弥陀堂」の中で寺宝を見られる(写真撮影不可)。

「壬生寺」をあとにして新撰組ポタリングは続く。↓
「壬生寺」の向かいに「新徳寺」。

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文久3年(1863)に清河八郎が山岡鉄太郎、芹沢鴨、近藤勇を率いて入洛したとき、新撰組の骨組みを築いたのがこの場所。
近藤、土方らが到着した晩に、本堂で尊攘の大演説を行い、議論は物別れとなったエピソードは有名である。残念ながら内部は非公開。

↓その並びの通りを曲がった所に「旧前川邸」。新撰組屯所跡。

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文久3年、近藤・芹沢ら浪士組が京都に残ることを決めて以来、隊士達は斜め向かいの八木邸とこの前川邸に分かれて住んだ。前川一家は新撰組に屋敷を占領され、油小路六角の本家の方へ移らざるをえなかったらしい。

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現在は田野製袋所(上の写真の左下)となっていて内部は非公開。
↓建物はほぼ当時のまま残っているとのこと。

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ここに有るのは・・・、
芹沢派で最後まで残った野口健司が切腹した出格子窓の部屋、
池田屋事件の前に古高俊太郎が五寸釘責めの拷問を受けた土蔵、
総長・山南敬助が脱走の罪で切腹した八畳間(前の晩、恋人の明里と別れを惜しんだ出窓は取り払われている)、
等々。
↓玄関でお土産物の販売と、解説(話のみ)をしている。

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↓この旧前川邸と坊城通を挟んだすぐそばに「八木邸」。

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ここは内部公開(解説案内付)されている。

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文久3年(1863)2月、江戸から来た浪士組は壬生に入り、近藤勇・芹沢鴨ら13名がここ八木源之丞邸を宿舎とした。以来慶応元年に西本願寺に移るまでここを屯所とし、移転の後も隊士は懐かしがって度々遊びに来ていたそうだ。

↓大きな長屋門。

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↓門をくぐったところ。写真撮影はここまで。

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中でいろいろ説明を受けた。
ここで文久3年9月16日夜、筆頭局長芹沢鴨、妾お梅、平山五郎が就寝中刺客(土方,山南,沖田,原田)に暗殺された。
祝賀会で散々酔わされた芹沢達は、帰ってきてすぐに就寝。そこを上の4人が襲い、玄関を入ってすぐの仏間に寝ていた平山がまず犠牲となり、次に奥の床の間にいた芹沢鴨とお梅が襲われたとのこと。芹沢は床の間に架けてあった脇差しで応戦したが、隣の八木一家の寝ている部屋で文机につまずいて(ちょっと大河ドラマと違う)転んだところを斬りつけられ、絶命したという。その部屋の鴨居にはこの時斬りつけられた刀傷が残っている。芹沢がつまづいたという文机も見ることができる。
この時に八木家の長男(当時子供)八木為三郎も巻き添えで足を斬られて怪我をしたそうだ。暗殺の様子は、昭和になって小説家の子母澤寛が目撃者だった為三郎から聞き書きした『新選組遺聞』に詳しく書かれている。
他にも隊士達が刀を置いた場所、台所等々を説明。
沖田はもてたらしく、舞妓さんやらが縁側にずらっと坐って沖田が外から帰ってくるのを待っていたらしい。

↓見学後に八木家が経営する隣の茶房「鶴壽庵」で、屯所餅とお抹茶を頂く。
屯所餅は壬生菜を刻んで皮に混ぜてある大福。餡は丹波大納言を使っている。

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↓八木邸を出て綾小路通を少し東に進むと「光縁寺」。1613年(慶長18年)頃に創建された浄土宗の寺で、知恩院の末寺。
ここにも新撰組の墓が有る。

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「丸に右離れ三つ葉立ち葵」の寺紋が新撰組総長・山南敬助の家紋と同じだったことから親しく交流するようになったとも言われている。

↓本道裏の墓地に行くと、一番奥に新撰組の墓が有る。

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↓一番右が新撰組総長・山南敬助の墓。
山南は慶応元年、屯所移転問題などで新撰組の現状を憂い、脱走。前川邸で切腹した。元治2年2/23没。
大河ドラマの山南の脱走~切腹までは結構印象に残っている。芹沢鴨と同じく結構好きなキャラだった。
ちなみにその左隣に大石造酒造(おおいしみきぞう)の墓(上の写真の真ん中の墓)。隊士ではないが、祇園で新撰組の今井裕二郎に惨殺された。兄の隊士・大石鍬次郎の繋がりでここに葬られたのかもしれないとのこと。

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↓一番左は松原忠司,櫻井勇之進,田内知,谷三十郎ら12人の合同墓。

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写真では5名の名まえしか見えないが、左右の側面にも名まえが刻まれている。
正面に松原忠司、桜井勇之進、小川信太郎、市橋鎌吉、田内知。
右側面に田中寅三、加藤羆。
左側面に矢口健一郎、佐野七五三之助、中村五郎、茨木司、富川十郎。

さて光縁寺をあとにし、壬生から離れ、今度は堀川通、西陣周辺を巡る。
堀川通(下の写真の上段)を南下すると「西本願寺」が見えた(下の写真の左下)。

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堀川通は交通量が多いが、路地裏に入ると静か(上の写真の右下)。

↓堀川通を挟んで向いの歩道にも門。

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↑堀川通の一つ東を並行して走る「油小路通」から見る。

自転車を西本願寺の北に有る「本願寺門徒会館」の駐輪場に置いて参拝。
↓「阿弥陀堂門」。

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↓くぐると「総御堂(阿弥陀堂)」。

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↓「御影堂」。修復工事中。

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↓「総御堂」と「御影堂」を繋ぐ回廊。

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↓「経蔵」。

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西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山。
宗祖の親鸞入滅後、末娘の覚信尼が文永9年(1272)に現在の東山区林下町(知恩院三門北の崇泰院あたり)に廟堂を営み、遺骨を安置したのが発祥。
その後、各地に寺基を移転、天正19年(1591)豊臣秀吉により寺地の寄進を受け、天満にあった寺基より現在の京都市下京区堀川六条に移転した。

新撰組は「池田屋事件」の後、急速に隊士が増えて壬生の屯所では入りきらず、慶応元年(1865)3/10に、ここ「西本願寺」の「北集会所(移設されて現在は姫路の亀山本徳寺の本堂)」を新たな屯所とした。
ちなみに西本願寺は末寺門徒の多い長州藩との関係から多くの勤王僧も輩出し、元治元年の「禁門の変」で敗れた長州藩士を僧の姿に変装させて落ち延びさせたこともあって、明らかに長州寄り勤王派と目された。
このため幕府は強引に新撰組屯所を置き、勤王派の活動を抑制しようとしたという説も有る。

↓「太鼓楼」。ここも新撰組の屯所に使われた。

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実は境内に新撰組に関する記述の立て札は見当たらない。境内外の壁に最近作られた説明板が有るだけ。
寺側にとって新撰組は招かざる客だったみたい。新撰組の大砲の訓練や豚肉を料理する臭いなどで寺側は大変困惑したようだ。2年後に寺側は新撰組を立ち退かせるために、全費用を負担してここより南の「不動堂村」に屯所を移転させた。

「西本願寺」を後にし、堀川通の一つ東を並行して南北に走る「油小路通」を南下。

↓結婚式に遭遇。お幸せに~~~。

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↓途中で「油小路の変の跡」。

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↓門の中に碑。

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↓「油小路の変」の説明。

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御陵衛士側は藤堂平助、服部武雄、毛内有之助が討死、鈴木三樹三郎、加納道之助、富山弥兵衛、篠原泰之進は辛うじて血路を開き薩摩藩邸に庇護された。4人の遺体は数日間現場に放置された後、満月山光縁寺に葬られ、翌年2/13に泉湧寺内戒光寺に改葬された。

今度は逆に油小路通りを北上。丸太町通に出て東進。「京都御所」に向かう。

↓御所の西側の烏丸通沿いに有る「蛤御門」。

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↓ここは「禁門の変」で有名。新撰組はここで戦闘をしていないが・・・。

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↓のどかな御所内の敷地を走る。

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また外に出て烏丸通を横断。
烏丸通と並行した一つ西の裏路地、葭夜町通に入る。
↓ここには新撰組筆頭局長・芹沢鴨によって焼き討ちされた生糸問屋「大和屋」が有った。

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ある日、芹沢は隊士を率いて生糸問屋「大和屋」を焼き討ちする暴挙を働いた。同じ日に近藤や土方は壬生で相撲興行を開いており、これが気に入らない芹沢の意趣返しと考えられた。御所近くの「大和屋」が燃えて京は騒然となる。
会津藩主松平容保は現場に駆けつけ怒りを露にし、数日後、近藤、土方らの試衛館派の幹部を密かに呼ぶ・・・。こうして芹沢らの暗殺に繋がっていったわけ。

↓ここから北上して西陣に入ると「長圓寺」。
新撰組二番隊伍長・諸士調役兼監察、島田魁の菩提寺。

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島田魁の墓自体は東山の「東大谷墓地」、遺骨は「東大谷祖廟」に有る。
島田魁は戊辰戦争まで戦い、明治2年(1869)5月に降伏。11月まで謹慎生活を送る。その後、名古屋藩に預けられ、謹慎が解かれると京都で剣術道場を開く。明治19年(1886) 西本願寺の夜間警備員となる。明治33年3/20、勤務先の西本願寺で倒れ73歳で死去。

西陣の町屋の間を西へ抜けて(下の写真の左)、「北野天満宮」の前に出る(下の写真の右)。

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↓北野天満宮の東から「上七軒」に入る。

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「上七軒(かみしちけん)」は京都最古の花街。 室町時代に北野天満宮の再建の際に残った機材を使って7軒の茶店を建てた。これが名前の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に団子を献上、西陣の結びつきで花街としての繁栄した。
毎年春になると芸妓や舞妓による『北野をどり』が上演される。

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土方歳三が馴染にしていた舞妓の君菊は上七軒にいた。

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土方もちょくちょくこの通りを歩いていたのでは?

次いで上七軒,西陣から一気に東山へ。今出川通や丸太町通を使って東進。
やがて「金戒光明寺」に到着。

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浄土宗の寺。正式には「紫雲山・黒谷金戒光明寺」。本尊は阿弥陀如来。
開祖法然上人が初めて草庵を営んだ地である。十五歳で比叡山に入った上人が承安5年(1175)43歳の時、念仏の教えを広めるために山頂の石の上で念仏をした時、紫雲全山にみなぎり光明があたりを照らしたことからこの地に草庵をむすんだと言い伝えられている。すなわち、ここが浄土宗最初の寺院となった。

そしてここは幕末に、「京都守護職会津藩の本陣」になっていた。

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幕末の京都の治安は非常に悪く、文久2年(1862)に徳川幕府は新しい職制を作って京都の治安維持に当たらせることになった。これが京都守護職である。
その年の8/1、会津藩主松平容保(かたもり)は江戸城へ登城し、14代将軍徳川家茂から京都守護職・正四位下に任ぜられた。容保は家臣1000名を率いて12/24にこの寺に着任。京の町衆から熱烈な歓迎を受けたらしい。
金戒光明寺が本陣に選ばれた理由は、
①城構えの要塞のような境内、
②京都御所や東海道の発着点粟田口(三条大橋東)などの要所に近い、
③宿坊が多く、1000名の軍隊を配置できる、
等々からだそうだ。

新選組と会津藩の関係は、幕府が文久2年(1862)に将軍上洛警備のため浪士組を結成したことに始まる。
文久3年(1863)2/8、江戸小石川伝通院に集合した240余名の浪士組は中山道を通り、2/23に京都の壬生へ到着。生麦事件発生により清河八郎他200余名は江戸へ帰ることになったが、清河と意見を異にした近藤勇・土方らは、水戸浪士芹沢鴨等とともに京都残留を希望。3/10老中板倉勝静は京都守護職松平容保に浪士差配を命じ、近藤・芹沢らは京都残留の嘆願書を守護職に提出。3/12に京都守護職御預かりとなった。翌3/13に浪士組の清河等は江戸へ帰った。
3/16には近藤・芹沢等はここ金戒光明寺で京都守護職松平容保に拝謁がかなった。
八月十八日の政変(七卿落ち:クーデターである八月十八日の政変において、薩摩藩・会津藩などの公武合体派に敗れて失脚した尊皇攘夷派の公卿の三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉ら7人が京都から追放され、長州藩へと逃れた出来事。)の日、武家伝奏より『新選組』の命名とともに市中取締の命を受け、都大路を縦横無尽に走り廻り治安は目立って回復した。
新選組の壬生の屯所と黒谷本陣との間では報告・伝達が毎日のように行われていたらしい。

↓「山門」。万延元年(1860年)の完成。桜上正面に後小松天皇宸翰「浄土真宗最初門」の勅額がある(写真は無し)。・・・重厚ですな。

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↓山門をくぐって、本堂への階段の手前で振り返って・・・山門の裏の様子。この辺りに自転車を駐輪。

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↓「阿弥陀堂(本堂)」。

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↓境内の東、石橋で池を渡る。

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橋を渡ると、墓地の中を石段の登りが続く。
↓途中の右手に「御影堂」。

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↓石段を登りきると「三重塔」。

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「三重塔」を付き当たって左に曲がり、道なりに歩く。
↓すると「会津藩殉職者の墓地」。

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次いで「金戒光明寺」を後にして南西の方角に走る。

三条通に入り、三条大橋を渡って「鴨川」を越える。この辺りから人が多くなる。
↓鴨川の西を並行して流れる「高瀬川」を越えるための「三条小橋」に到着。

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↓この雑踏の行き交う場所、「三条小橋」の東端に「佐久間象山、遭難の碑」

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↓佐久間象山(1811~1864)(大河ドラマでは石坂浩二が演じていた)の説明。

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↓三条小橋を渡ってちょっと西へ進むと「池田屋の跡」。

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「池田屋」は今は無く、碑だけ立てられている。

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↓「池田屋事件」の説明文。

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↓「池田屋跡」はビルが建ち、1階はパチンコ屋になっている。狭くて人通りの多い歩道での写真撮影は顰蹙気味だったかも。

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「池田屋事件」で新撰組は絶頂期を迎えたと言えるだろう。最も輝かしい時期だったのでは。
これ以降、新撰組は凋落・破滅の道へ向かってしまう。組織って難しい「生き物」ですな。

高瀬川のいい景色を眺めながら南下。

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↑五条大橋を過ぎて、京都市内の繁華街を抜けて南下。市の南端の伏見区へ向かう。
国道24号と竹田街道(下の写真の左上)を繋いで京阪「中書島駅」の北、伏見区南浜町に来ると「竜馬街道」(下の写真)。

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そう、ここには「寺田屋」が有る。
中を見学できるが15:30まで。既に16:00を過ぎている。この日の公開は終了していた(残念)。

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「寺田屋」は、新撰組ゆかりではなく「坂本龍馬」ゆかりの場所だ。新撰組も来たことは有るとは思うが。

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「寺田屋」は当時大阪と京都の淀川舟便(三十石舟/高瀬舟)の乗り換え船宿でもあり、薩摩藩の定宿でもあった。

↓「寺田屋事件」は二つ有るが、そのひとつ、1862年に発生した薩摩藩尊皇派等の粛清事件に関する説明。のちの新撰組の面々が京都に入る一年ほど前に起きた。

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ちなみにもう一つの事件は1866年に発生した伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件。
龍馬が寺田屋の2階でくつろいでいるところを、伏見奉行所の捕吏ほりに取り囲まれてしまい、入浴中の恋人・お竜が裸のまま裏階段を駆け上がって急を知らせたため、龍馬は難を逃れることができた。

坂本龍馬はよくここに泊まっていたみたい。2階の窓から外の景色を眺めていたのだろうか。

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寺田屋の前を川が流れている(寺田屋からの眺めでは川は左右に走っている)。

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当時は今とは随分違う風景に違いないが、何となく当時の川の様子を想像できる。

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川を眺めながら竜馬は日本の未来を考えていたのだろうか。

ここで新撰組ゆかりのスポット巡りは終わり。
写真と文章では場所のイメージが伝わらないと思うので、記事で紹介したスポットのだいたいの位置を地図に示す。


壬生界隈と西本願寺界隈。

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↓紹介した京都御所と西陣界隈。

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↓東山界隈。

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↓上の3つをまとめた地図。

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↓「寺田屋」の場所。

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しかし、新撰組ゆかりのスポットは京都市内にまだまだた~~くさん有る。
↓参考までに、その一部を青丸&ピンク色の帯の文字で記した地図をup。

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新撰組マニアからは「もっと有るぞ。」「○○を忘れているぞ。」って言われそうだが・・・。
僕のようなにわか仕込みの知識では、現地でなかなか見つけるのがたいへんなスポットも多いかも。「○○跡」とかになるとそうかも。
それに、四条河原町周辺は人混みがすごいので自転車で通るのは困難。加えて時間帯によっては自転車走行禁止の道も有る。今回、そういう所は全部パスしてしまった。
ところで、新撰組の当時の隊服を「大丸」で作ったというのはちょとトリビアだな。

話をサイクリングに戻すと・・・、

「寺田屋」を後にする頃の時刻は16:30頃。急いで大阪に帰る。
寺田屋からちょっと迷走しつつ西進(地図を持っているのにあまり確認しないで走ってしまった)。
淀で桂川沿いのサイクリングロードに合流。あとは来た道をそっくりそのままトレース。楠葉の新しい河川敷ロードも使った。
自宅に19:00頃無事到着。

今回、サイクリング前の計画並びに記事を書くに当たって、新撰組について色々ネットで調べたりした。僕の予備知識は殆どNHKの大河ドラマ「新撰組!」からだったので、ドラマと違う事実(真偽は定かではないものもあるが)が色々有って、面白かった。
ドラマでは爽やかに脚色されている(せざるを得ない)が、実際はやはり血と闇の部分が多い感じ(今回の記事には書かなかったが)。
しかし、新撰組の登場も破滅も時代の流れの中で必要なことだったのだろう。・・・・な~んて、分かったようなこと書いたりして(恥)。

今回の「新撰組」のようにテーマを絞った歴史に触れるサイクリングもいいものですな。サイクリング自体もそうだが、その前後の勉強も充実した感じ。

コース概略/自宅→淀川北岸河川敷・土手→枚方大橋→淀川南岸河川敷・土手→京都・八幡市→府道13→御幸橋→八幡・嵐山サイクリングロード→桂大橋→府道139→府道184→国道9→葛野大路通→高辻通→千本通→仏光寺通→壬生寺→新徳寺→前川邸→八木邸→綾小路通→光縁寺→大宮通→押小路通→堀川通→西本願寺→油小路通→油小路の変跡→油小路通→丸太町通→烏丸通→京都御所→中立売通→葭夜町通→大和屋跡(上京区福大明神町)→葭夜町通→元誓願寺通→智恵光院通→笹屋町通→長圓寺→笹屋町通→今小路通→今出川通→北野天満宮前→御前通→上七軒→今出川通→室町通→丸太町通→吉田東通→春日上通→金戒光明寺→岡崎通→三条通→三条大橋→三条通→池田屋跡→三条通→木屋町通→五条通→河原町通→国道24→伏見区竹田→竹田街道→竜馬通→寺田屋→竹田街道→伏見区横大路→府道13→納所→八幡・嵐山サイクリングロード→御幸橋→府道13→八幡市→淀川南岸河川敷・土手→枚方大橋→淀川北岸河川敷・土手→自宅

走行距離/122.39km
走行時間/7hr26min
平均速度/16.47km/hr
最高速度/記録エラー
Peugeot MTB(Hard Tail)積算距離/974km
全Bike積算距離/9981km

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Comments

ブハハ、新撰組隊士の前を行く自転車のオッッチャン、忘れもしません、この写真! 確か御所と言うとナンパされた事と体育でブルマーで走らされた事をコメした気がします。いつもKatzeさんはすごく勉強してから出かけるんですね。あ、もともと知識が豊富なんだ~!

« 投稿: あさたろう  2007年6月10日 (日) 18時25分

あさたろうさん>
コメは覚えています。

僕は計画の時に調べておいて、
最近では、
記事の引用部分は、先に書いておいたり、リンク先を集めておいています。
あとは、記事を書きながら調べます。

新撰組の時は、ネットで事前にいろいろなウォーキングの人のHPをあさって、行くべきところを調べておきました。
何も調べないで出掛けたら、壬生周辺と西本願寺ぐらいで終わっていたでしょう。

事前に調べておかないと、何も見つからないまま終わる可能性が高いので・・・。
まあ、それをつまらないと思う人もいるでしょうけどね。
僕は折角時間を使うのであったなら、何か収穫がないと、納得できないので~。

« 投稿: Katze  2007年6月10日 (日) 21時07分

旅行記のような珠玉のサイクリング記事の中で、私が一番好きな記事かもしれません。
あ、鍾乳洞のコウモリもインパクト大でしたが(*^_^*)
せっかく行くなら知識を充填して行かれると、楽しさが違うと思います。
大好きな京都‥台風の中、大揺れのフェリーに乗ったりして行き来したのに、
新選組とか京都の事を碌に知らずに行ってました。
もったいない!!ただ寺を回って、本場の宇治金時パフェは旨いとか言ってたんだけですからね‥
今なら地図を片手に色んなパターンで回れそう。
土方の気分や、芹沢の気分で回ったり、角屋とか寺田屋とか。。
あぁまだまだ勉強不足だ!出直してきま~す(^_^;)

« 投稿: アネモネ  2007年6月10日 (日) 23時20分

アネモネさん>
ありがとうございます。

旅って、色々な楽しみ方が有りますし、
もし、
「ここに行けば良かったな~。」とか
「気がつかなかった~。」
って、あとで思ったりするのも、
「また行きたい」と思う気持ちになるので、
それはそれで、いいと思います。

ぼくも、サイクリングでも、
「あそこを見落とした~。」
「時間が無くてあきらめた・・・残念。」
ということがよく有ります。
これが次のサイクリング欲を高めてくれます。

« 投稿: Katze  2007年6月11日 (月) 21時35分

 






 

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