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2008年10月 9日 (木)

淀川渡し舟跡ポタリング 2008.10.04

年月日/2008年10月4日

バイク/Peugeot VTT-205 MTB (Hard Tail)

目的/淀川の渡し舟跡を巡る。

ポイント/「はしもるの国内旅行情報交換室淀川の渡し舟」を参考。

内容/
ここのところ山間部のサイクリングが続いていたので、たまには近場の町の中、あるいはその近郊をノンビリとポタリングしようと思い、以前から計画を温めておいた(計画をしたらポタリングじゃあないんだけどね)、昔の淀川に有った渡船場跡、もしくはそれに関する場所を巡るポタリングをすることにした。
大阪市内の湾岸近くには今も現存している渡し船が何箇所か有り、一昨年にそれらを全部自転車で回って「大阪渡し船ポタリング 2006.02.19」というサイクリング記事を書いた。今回は、現在は無くなってしまった淀川の渡し舟跡を辿ってみる・・・探してみるというわけ。

事前にネット上で調べたところ、下の地図に有る7か所を見つけた。

Map_081004

①の「山崎の渡し」は淀川と桂川・宇治川の境目付近で、これが淀川最上流の渡しだと思う。ここから下流に向かって「十三渡し」まで7か所有る。どうやらまだ他にも有ったらしいが、今回はこの7か所ということで・・・。
なお、そのネット情報元は「はしもるの国内旅行情報交換室」というサイトの「淀川の渡し舟」というページで、今回のポタリングはそれを全面的に参考にさせて頂いて回ってみるつもり。
以下、本文中にも「淀川の渡し舟」のページの文章を引用している。
(サイトの管理人「はしもる」様の許諾済み)

淀川沿いの河川敷や土手の未舗装部分を走る可能性が有るので、自転車は、セミスリックタイヤを履いた街乗り用にしているハードテイルMTBのPeugeot VTT-205を選択。
今年正月の「神崎川~大阪北港・舞洲ポタリング 2008.01.01」以来の出動だ。

僕の住んでいる場所から⑥「平太の渡し」が一番近いので、最初にその⑥を。
次いで上流に向かって⑤→④→③→②→①と進むが、両岸に見るべきスポットが有ることと、対岸に渡るためには橋を渡るのだが、今も橋が無い渡し舟跡も有るので、綺麗に順番にまわることができない。実際に走った跡を図で説明しても、文章で説明してもややこしい。また、いつものサイクリング記事のように見つけたスポット順に書くと、一つの渡し舟跡の説明がバラバラに記述されてしまって全くもって分かり難い。
そこで以下の文章では、概ね⑥→⑤→④→③→②→①と上流に進み、最後に一気に下流の⑦に行く・・・という順番で書いておく。
・・・ま、だいたい実際それに近いんだけどね。
簡単に言うと、南岸沿いだけで上流へ・・・①の南岸に着いたら少し戻り、最上流の橋「枚方大橋」(③の有った所)を渡って北岸へ・・・北岸の最上流の①の北岸に着いたらUターンして北岸沿いをひたすら下流の⑦へ・・・大体はそんな感じ。
⑥→⑤→④→③→②→①→⑦ね・・・⑥→⑤→④→③→②→①→⑦・・・(←くどい!)

自宅を7:00ちょい前に出発。
(輪行じゃないと、この位に出発出来ていいね~。いつもいつも3:30起きは辛いからね~。)

↓ちょろっと走って淀川北岸の土手に到着。

20081004ride6_1

↑この写真の向こうに豊里大橋が見える。
↓そのすぐそばの下流寄りに「平太の渡し」跡が有る。

6.平太の渡し

↓場所はこの辺り(青い線路が大体の航路)。

Photo

現在の国道479号豊里大橋下流すぐのところにあった渡し。1676年に個人経営の渡しとして発足し、1907年公営化(大阪府営)、その後大正時代に運賃無料化・大阪市営化などが行われました。さらに昭和23年には大阪市の直営化が行われています。
戦後は付近で市街地化されてラッシュ時には積み残しが出るほどになり(片道20分かかる20人乗りの手こぎ舟)、1963年頃に36人乗りの船になりました。この頃には1日に3000人の乗客と670人の自転車で賑わっていたようです。
1970年3月、豊里大橋が開通し、同時にこの渡しは廃止されました。渡しを偲んで堤防両岸には記念碑が、右岸の道路側壁に記念プレートが造られています(右岸堤防の記念碑は「平田の渡し」になっています)。
(「はしもるの国内旅行情報交換室淀川の渡し舟」より抜粋)

↓豊里大橋に近づいていくと・・・。

20081004ride6_2

↓有りました。土手の脇に「平田の渡し跡」の記念碑。

20081004ride6_3

↑確かに「平太」ではなくて「平田」になっている~。
↓これが豊里大橋。北岸の東淀川区から南岸の旭区,守口市を見る。

20081004ride6_4

↑この辺りに渡し舟が往来していたのだろう。
↓南岸に渡る。淀川の川幅が広い。ここを舟が行き来していたのか~。

20081004ride6_5

↓橋を渡って南岸の下流寄りの土手に、もう一つの大きな記念碑。

20081004ride6_6

この記念碑の存在は数年前から気が付いていた。

20081004ride6_7

↓こちらは「平太」だ。

20081004ride6_8

「平太」と「平田」・・・何故違うんだろう。後で調べてみるか・・・(←ホントか?)
↓南岸の河川敷から豊里大橋を仰ぎ見る。

20081004ride6_9

↑橋の歩道部分は自転車や歩行者がひっきりなしに通る(僕もその一人か・・・)。
(この橋の車道は「自転車進入禁止」です。)

橋の長さ:河川部 561.4m
幅員:16.4m
形式:鋼斜張橋他
完成:昭和45年
奈良時代、聖行基は全国に布教しながら各地で優姿塞(うばそく)を組織して灌漑施設や道路、橋の建設をしたが、その一つとされる高瀬大橋は、現在の豊里大橋の近くに架けられたと推定されている。この大橋は、生駒山から昆陽(こや)の地を結ぶ道の一部をなすとされている。
豊里大橋は、日本万国博覧会の関連道路の一環として整備された。形式は大阪市では初めての本格的な斜張橋で、中央スパン215mは当時日本最長であった。コンピューターによる構造計算や新しい材料など技術の進歩によって可能になった構造である。
(「大阪の橋の地図:豊里大橋」より)

さて、上流へ向かって進む。

20081004ride65432_1

見慣れた道を進むと程なくして・・・。

5.宮ノ下渡し

↓場所はこの辺り(青い線路が大体の航路)。

Photo_2

大阪モノレールが走っている「鳥飼大橋」の下流寄りだ。

宮ノ下渡しは、大庭大切(現:守口市)と一津屋村宮ノ下(現:摂津市)を結んでいた渡し。宮ノ下の小字の駒頭から、駒頭の渡しとも呼ばれていました。
渡しは戦国時代末期から存在したと言われています。1954年(昭和29年)の鳥飼大橋開通で姿を消しました。右岸の堤防下の道路脇に渡しの案内板があり、ここに渡しがあったことを伝えています。
(「はしもるの国内旅行情報交換室淀川の渡し舟」より抜粋)

↓南岸はこの辺りだろうか?目の前に「鳥飼大橋」。

20081004ride5_1

鳥飼大橋(とりかいおおはし)は、大阪府守口市大日町と摂津市鳥飼西間の淀川を渡る橋。道路橋2本とモノレール橋(大阪高速鉄道)、高速道路橋(近畿自動車道)が通っている。橋長550m。
日本で最初の有料橋。現在は無料。

南岸には何か跡らしいものは見つけられず・・・。
↓一方、対岸の北岸、摂津市側に「味生神社」。

20081004ride5_2

祭神は「応神天皇」。

20081004ride5_3

↓鳥居の右に石柱が有り・・・。

20081004ride5_4

↓更にその右に「渡し跡」の案内板が立っている。

20081004ride5_5

↑自動車が目の前に有る位置に看板。
↓案内板の文章。

20081004ride5_6

なるほどね。

↓また上流へ。下の写真は南岸。いつもはさっさと通り過ぎる道。

20081004ride65432_2

次の上流側に架かる橋「鳥飼仁和寺大橋」の近くに渡し跡が有る。

4.鳥飼(鳥養)の渡し

↓場所はこの辺り(青い線路が大体の航路)。

Photo_3

大正時代中頃、それまで別々に運航されてきた「治歩多(じぶた)渡し」と「願正寺渡し」が合併してできた渡し。治歩多(現在の摂津市鳥飼下)と仁和寺(寝屋川市)の間610mを結んでいました。
1614年、大坂冬の陣を前に片桐且元が家臣とともに大坂城を退き、茨木城へ入ったときにも、この渡しを利用したそうです。その後幕府は寺社奉行に管理させ、許可制に。
明治以降、民間運営されていたのが1933(昭和8)年大阪府の管理・運営に。そして昭和50年、運航が終了しました。淀川の渡しとしてはかなり遅くまで残っていたといえます。
(「はしもるの国内旅行情報交換室淀川の渡し舟」より抜粋)

↓遠くに見える橋が「鳥飼仁和寺大橋」。

20081004ride4_1

この橋は自動車は有料。自転車は勿論無料。
摂津市と寝屋川市を結ぶ延長約 700 mの淀川を渡る。 100 円橋(普通車 100 円全線均一)として親しまれている。

20081004ride4_2

で、ここの渡し跡・・・残念ながら何も見つけることが出来ず・・・orz
昭和50年まで渡し舟が有ったらしい。つい最近までやっていたんだな~。
↓鳥飼仁和寺大橋の上に行ってみますか~。向こうが南岸。

20081004ride4_3

↓川幅はこの位・・・て、どの位?

20081004ride4_4

渡しは、上の写真とは橋を挟んで反対側(下流側)に有ったらしいが・・・。

ま、そういうわけで上流へ。
↓振り返ると「鳥飼仁和寺大橋」、更に遠くに「鳥飼大橋」。

20081004ride65432_3

更に進む(南岸)。ここから枚方大橋まで意外と長い。

20081004ride65432_4

途中で淀川新橋を通過。
もう少し上流側に「枚方の渡し」跡と「枚方大橋」が有る。
やがて程無くして・・・。

3.枚方の渡し・郵便屋の渡し

↓場所はこの辺り(青い線路が大体の航路)。

Photo_4

枚方でもっとも利用が多かったのが、三ツ矢(枚方)と大塚(高槻)を結ぶ枚方の渡し。別名大塚の渡し。
枚方と高槻を結ぶ枚方大橋が枚方の渡し近くに架けられたのが、大阪市内をのぞく淀川では早い方で1930(昭和5)年。渡しはこのとき廃止になったのだろうか?
(「はしもるの国内旅行情報交換室淀川の渡し舟」より抜粋)

↓「枚方大橋」の南岸の土手、下流側。

081004ride3_1

河川敷の「ひらかた水辺公園」に降りる(そういう名前の公園だったんか~??)。
↓公園から対岸の高槻市を見る。

081004ride3_2

↑この辺りが船着き場だったのかな~?
↓逆に、高槻市側から枚方市側を見る。

081004ride3_3

↑こちらは、より船着き場らしい感じ。
当時のものではないだろうが、やはりここにかつて有ったのではないだろうか。
↓さて、枚方市側に記念碑が有る。

081004ride3_4

↑公園から土手の府道13号に上がる道と、府道13号と、堤町へ降りる道がクロスする交差点近くに有る。
ここは頻繁に通るところだが、府道13号を挟んで反対側に有ったので全然気が付かなかった。
だいたい、鍵屋資料館の裏手に当たるかな~?
・・・実は、この記念碑が初め見つからず、堤町側に降りて京阪・枚方公園駅~三矢町界隈をぐるぐる回ってしまった。「いつも通る府道13号から見える所に有ったのか~。」・・・と精神的に疲れている(-_-;)
以前走った「枚方宿・京街道ポタリング 2007.04.15」を再現したみたいな状況。
・・・で、↓

081004ride3_5

「郵便屋の渡し跡」と彫ってある。

081004ride3_6

明治10年に淀川右岸(高槻側)に現在のJR東海道線が開通し、左岸(枚方側)の郵便物はこの渡しで淀川を渡り、高槻駅まで運ばれて列車輸送されたようです。そのため、郵便屋の渡しとも呼ばれていたのでしょう。
(「はしもるの国内旅行情報交換室淀川の渡し舟」より抜粋)

081004ride3_7

↓説明文の碑。

081004ride3_8

↑ここより上流へ570m・・・と書いてある。
と言うことは、先ほどの写真の舟着き場らしいと思っていた場所はちょっと間違いだな。
もう少し枚方大橋より上流側に離れているな・・・いずれにしても公園内だが・・・。

さて次の渡し跡へ向かう。
淀川南岸沿いのサイクリングロード(別にサイクリングロードとして指定されてはいなんだけどね)を東進。
↓何度も通っている道だ。

20081004ride65432_5

程なくして、次の渡し跡付近に着く。

2.前島渡し

↓場所はこの辺り(青い線路が大体の航路)。

Photo_5

枚方の牧野地区と高槻の前島地区を結んでいた渡し。京街道と高槻・西国街道を結ぶ渡しとして重要な役目がありました。
明治初期には1隻の船で運航。
渡しがあった頃の堤防上の道標が、京阪牧野駅近くの道路上に移設されて残されています。道標には「すぐ下 前島街道」などと書かれています。
(「はしもるの国内旅行情報交換室淀川の渡し舟」より抜粋)

かつて舟着き場が有ったと思われる場所はグランドの裏手の藪の中。この季節はマムシがいる恐れが有るので、当然入りません。
↓かつての舟着き場の近くの穂谷川と淀川の合流地点で撮影。

20081004ride2_1

↑対岸が高槻市前島付近。対岸も藪と林に埋もれている。
↓これがその高槻市前島付近。この付近、工事現場の土砂置き場になっているので、もはや舟着き場など全く不明。

20081004ride21_3

穂谷川沿いに府道13号に戻り、そこから府道17号に入る。
府道17号沿いに舟着き場を示す道標が有る筈だが、なかなか見つからず、右往左往・・・。
↓やっと見つけた。

20081004ride2_2

歩道を歩いていれば見つけやすいが、車道を走っているので案内板が裏になり、見つけにくかったのだ。

20081004ride2_3

府道17号は対岸の高槻市にも続いている。淀川で分断された川の上を走る府道というわけだ。その高槻市側の府道17号が「前島街道」なのだな。

20081004ride2_4

↓案内板の説明文。

20081004ride2_5

京街道,西国街道を結ぶ重要な渡しだったんですな~。

再び淀川南岸の河川敷のサイクリングロード(勝手にサイクリングロード)に戻り、東進。↓

20081004ride21_1

↓河川敷の舗装路の東端近くに到着。
↓いつもは右下の写真の分岐の右手の坂を上がり、
↓左上の写真の府道13号に入って、東進・・・京都八幡市に突入する。
 そうすると嵐山~八幡~泉大橋のサイクリングロードに合流できる。
 この先ほどから度々名前のあがっている府道13号が京街道。

20081004ride21_2

↑ちなみに、右下の写真の右手の坂を登らずに左の道をまっすぐ行くと、左下の写真のように暫く舗装路が続くが、途中で未舗装路の轍になる。そのまま突き進めば御幸橋の手前に出れる。
↓一方これが、先ほどの前島渡しの北岸付近から東(上流)への道。

20081004ride21_4

↓北岸から見た淀川と枚方市、八幡市。

20081004ride21_5

今年になって北岸の舗装化進み、水瀬ゴルフ場まで舗装路(下の写真の右)。

20081004ride21_6

↑水瀬ゴルフ場と淀川河川公園の間(上の写真の左)から未舗装。↓

20081004ride21_7

で、話は次の渡し跡に戻って。

1.山崎渡し

↓場所はこの辺り(青い線路が大体の航路)。

Photo_6

大昔にはこの場所に「山崎橋」が架けられていたそうです(725年行基による)。しかしよく洪水のたびに流されていたようで、そのために渡しが当地での足になっていたそうです。
山崎渡しは大山崎油神人が石清水八幡宮へ納める灯油荏胡麻を運ぶのに大いに利用されたり(そのため山崎渡しの別名を灯油渡しとも呼ぶらしい)、渡し舟の運賃は淀川の水かさによって差があったりしたそうです。
1900(明治33)年の桂川改修以降、桂川と淀川本流の間には中洲(背割堤)ができたため、山崎渡しは2つの船を乗り継ぐものだったようです。
1962(昭和37)年にこの渡しは廃止されました。付近には橋がないのに廃止になるとはよっぽど需要がなかったのかと思ったのですが、橋本の遊郭が昭和33年の売春防止法により廃止になったのはかなり影響が大きかったようです。
ちなみに現在橋本~山崎の行き来には、当地には橋がないため京都側なら淀(京都第2外環)で、また大阪側なら枚方(国道170号)まで迂回しないと行けません。
さて、現在この渡しを偲ぶものが2つあります。それは橋本にある古い道標と小説です。
八幡市の橋本地区(京街道脇)には山崎渡しの道標が残されています。道標には「山さき」などと書かれており、川を渡れば対岸へ行くことができたことを想像することができます。
道標では、京阪橋本駅(大阪行きホーム側)改札前にも昭和2年製のものがあります。「橋本渡舟場 三丁」や「山崎停車場 十丁」「柳谷観音 一里一丁」と対岸の場所と距離が書かれています。
また、山崎渡しは現在でも小説で往時を偲ぶことができるようです。その小説とは昭和8年に刊行された谷崎潤一郎の「葦刈」。大山崎から橋本へ渡る淀川の中洲が小説の舞台になっているようです。
なお、山崎側には痕跡を見つけることはできないようです。
(「はしもるの国内旅行情報交換室淀川の渡し舟」より抜粋)

↓上の説明に有った中洲。北岸の山崎側から撮影。

20081004ride21_8

↑南岸の八幡の鳩ヶ峰の斜面に橋本の住宅がびっしり。
両岸とも舟着き場を探すのはとても無理な状況だが、
↓南岸の京阪・橋本駅・南口のすぐ目の前に道標が残っている。

20081004ride1_1

先ほどの説明文に書いてあった道標だ。

20081004ride1_2

↓側面の「湯澤山茶久尊寺」とは??

20081004ride1_3

さて、北岸の舟着き場が有ったであろう場所は桂川が淀川に変わる場所付近に有ったであろう。
淀川に注ぐ支流、水瀬川がその境。
↓その水瀬川を渡る橋。そのまま行くと桂川河川敷公園に出れるけど。

20081004ride1_4

↓水瀬川を挟んで下流側に「よどがわ」の表示板。
反対の上流側に「かつらがわ」の表示板。↓

20081004ride1_5

↑これが水瀬川。先ほどの中継地点の中洲の写真はこの付近から撮影。
↓土手に上がって南岸の八幡市方面をもう一度撮影。

20081004ride1_6

↑鳩ヶ峰。山頂付近に「石清水八幡宮」が有る。
↓今立っている北岸の土手から山崎のほうを撮影。

20081004ride1_7

↑天王山。橋本駅前の道標に刻まれていた「柳谷観音」はこの山の向こう。

↓さて、ここから一気に「十三渡し」跡を目指して下流へ。

20081004ride1_8

北岸を走り、平太の渡しと豊里大橋を抜け、ひたすら西進。

20081004ride67_1

毛馬閘門の近くまで来た。

20081004ride67_2

↓淀川大堰。

20081004ride67_3

どんどん走り、コスモス畑も通過。

20081004ride67_4

そしていよいよ、この日最後の渡し跡に到着。

7.十三渡し

↓場所はこの辺り(青い線路が大体の航路)。

Photo_7

現在の国道176号十三大橋付近にあった渡し。大阪から西宮へ向かう中国街道の渡しで、1878(明治11)年に十三橋(木橋)ができるまで存在していました。右岸(十三寄り)に碑と案内板があります。
(「はしもるの国内旅行情報交換室淀川の渡し舟」より抜粋)

20081004ride7_1

↑北岸の十三(じゅうそう)側の土手から見た淀川と対岸の大阪の街。
↑左の橋が「十三大橋」。
↓十三大橋の北岸の土手の脇に碑と案内板が有る。

20081004ride7_2

↓これ。

20081004ride7_3

以前、テレビ大阪(テレビ東京)の土曜日19:00からの旅の番組で、今年、淀川の源流をたずねる旅を放送していて、これが映ったと記憶している。

20081004ride7_4

↓案内文。

20081004ride7_5

↓道路を挟んで対面に「交通安全地蔵尊」。

20081004ride7_6

↓で、十三大橋。

20081004ride7_7

↓人・自転車の往来が多い。とりわけ、自転車・・・。

20081004ride7_8

大阪人、自転車好きやな~・・・・(←そう言うお前もな(^^ゞ)。

十三大橋とは・・・。
橋長:681.2m
幅員:20m
形式:鋼アーチ他
完成:昭和7年
十三という地名は、旧成小路村(現在の淀川区新北野付近で)の字名の一つで、十三の名の起こりは条里制の十三条に由来するという説もあるが、淀川の渡しのうち、上から数えて13番目であったこととする説が有力で、江戸時代以前から”十三渡”があったとされる。
この地に初めて橋が架けられたのは明治11年のことである。江戸時代には淀川や中津川には1本の橋も架けられていなかったが、明治になって架橋の運動が起こり、この気運の中で成小路村村民13人の共同経営の橋として、10年9月に架橋の許可を得、11年3月起工、同年7月に竣功した。私設橋であったため有料であった。
この付近で新淀川の開削工事が始まったのは明治32年、これにともない明治42年5月に鉄橋が完成した。
大正期に入って大阪の都市域は急速に拡大し、大阪市では第一次都市計画事業を策定、大阪府でも十大放射路線の計画事業をスタートさせた。
現在の十三大橋は、旧能勢街道を府県道大阪池田線として拡幅整備するのにともない、昭和5年1月に着工し、同7年1月に開通したものである。橋の形式は支間64mの鋼タイドアーチ5連やゲルバー式鋼桁橋が採用され、また、アーチ部の基礎にはニューマチックケーソンが用いられた。
(「大阪の橋の地図:十三大橋」より)

なるほど・・・。
渡しは全部で13有ったのか~。

これで予定してた渡し跡は全て終了。
北岸の来た道を戻り、途中から淀川を離れてちょっと走り、無事に帰宅。
時刻は16:00。

今回は単にスポット探し的な回り方をしたオリエンテーリングのような「浅い」ポタリングだったが、そこに渡しが通っていた理由を、周りの物・・・古い街道,寺社の存在,そこの町の歴史等々から推察したりするなど、「深い」ポタリングをすれば、もっと面白いのではないかと思う。
何か新たな発見が有るかも知れないし、知的好奇心をくすぐられる人もいるだろう。

距離は100km程。単に八幡~十三間を往復するだけなら、そこまでいかないが、スポット探しで結構ウロウロと頻繁に迷走し、結果的に100kmになっていた次第。

ま~何にしても、ここ最近続いていた山間部サイクリングとは大きく違い、いい気晴らしになった。輪行にもちょっとだるさを感じ始め、意欲が無くなりかけていた頃だったし・・・。
逆に、また輪行で山間部を走りに行きたくなったし・・・(淀川沿いはローディーだらけなので、彼ら彼女らを見ているとロードバイクに乗りたくなるんだよね~)。

いろいろな意味でポタリングして良かった~。
楽しかった。

はしもるの国内旅行情報交換室淀川の渡し舟の文章の引用を承諾してくださったサイト管理人「はしもる」様に感謝します。
ありがとうございました。

 

コース概略/自宅→平田の渡し跡(北岸)→豊里大橋→平太の渡し跡(南岸)→淀川南岸河川敷・土手→鳥飼大橋南端→淀川南岸河川敷・土手→鳥飼仁和寺大橋南端→淀川南岸河川敷・土手→枚方の渡し跡(南岸)→淀川南岸河川敷・土手→穂谷川土手→府道17→前島渡し跡(南岸道標)→穂谷川土手→淀川南岸河川敷・土手→京阪電鉄・八幡駅南口前・山崎渡し跡(南岸・道標)→淀川南岸河川敷・土手→枚方大橋→淀川北岸河川敷・土手→淀川北岸東端(島本町山崎)→淀川北岸河川敷・土手→鳥飼仁和寺大橋→淀川南岸河川敷・土手→鳥飼大橋→淀川北岸河川敷・土手→味生神社・宮下の渡し跡(道標)→淀川北岸河川敷・土手→十三大橋北端・十三渡し跡→淀川北岸河川敷・土手→自宅
(地図→クリックしてください (拡大可。))
(↑赤色のラインが走った所で、同じ線上を何回か往復したりウロウロと迷走したりしています。)

走行距離/104.61km(単に八幡~十三を往復するだけなら、もっと短いです。)
走行時間/6hr43min
平均速度/15.57km/hr
最高速度/記録エラー
Peugeot MTB(Hard Tail)積算距離/1396km
全Bike積算距離/14176km

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Comments

もちろんこの時代に橋はかかせない物ですけど、渡しってなんか風情があっていいなあ、と。便利な時代になってそれはそれでいいのですが。。。こんな事考えるのは年とった証拠ですかね~(・w・)  朝7時~16時、それでも合計9時間。。。Katzeさんにとっては軽い軽い!ですか~。サイクリングも色々、山道走ったり、のんびり(?)平坦な道を走ったり。。。季節を肌で感じて走ってらっしゃるんですね(~o~) あ。。。スルーしようかと思ったんですが。。。毛馬閘門。。。。やっぱり触れずにはいられない~( ´艸`)プププ

« 投稿: あさたろう  2008年10月 9日 (木) 09時19分

あさたろうさん>
それは歳ではなくて、感性ですよ~。

9時間も外にいると日に焼けます。また、9時間仕事すると疲れますが、9時間の自転車は疲れませんけどね(^_^;)

ぼくも毛馬閘門をスルーして載せないつもりだったんですが、旧淀川(大井川)と分岐する重要なポイント。読み方は何であれ、載せたくなる・・・アハハ。

« 投稿: Katze  2008年10月 9日 (木) 19時06分

すごい、渡しシリーズ?ですね。
渡しめぐり?
昔は大変だったんでしょうね。
こういう川沿いは走るのがすごく気持ちよさそうですね(*´∀`*)

« 投稿: しましま  2008年10月10日 (金) 00時16分

しましまさん>
大昔の人力時代ですと、距離が長いですからね~。大変でしょう。

多摩川沿いを「ちゃりり~ん」してみてください。気持ちいいですよ。

« 投稿: Katze  2008年10月10日 (金) 00時30分

大阪渡し船も見させてもらいました。
今も普通に出航しているのですね、しかも無料とはビックリです。
昔、福岡で渡し舟に乗ったことがあり、そのときは10円?だったと
思いました。こういう船はずっと残して欲しいですよね。
東京にもありますが、、「矢切の渡し」です。これは観光として
ちゃっかりお金を取っています。
淀川ってたくさんの渡し船があったんですね、それだけでも大きな
川だってことがよくわかります。

« 投稿: けめチチ  2008年10月10日 (金) 15時19分

けめチチさん>
昔の記事も読んで頂き、ありがとうございます。

大阪の現役の渡し船は生活と密着していますからね~。
渡し船がないと、橋が高い所に有りすぎて、歩いたり、自転車では普通の人には登るのが大変なんです。実際に自転車で登ったことが有りますが、おばちゃんがママチャリで登るにはきっついです。そういうわけで渡し船が大事。残してあげたいです。

« 投稿: Katze  2008年10月11日 (土) 01時10分