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2009年7月25日 (土)

近つ飛鳥・太子町ポタリング 2009.07.18

年月日/2009年7月18日

バイク/GLOBE (SPECIALIZED) Small Bike

目的/古代に“近つ飛鳥”と呼ばれた、大阪府東南部に位置する南河内郡太子町をポタリングし、古代の歴史に触れる。

ポイント/往復自走の予定。ただし帰途を輪行に切り替えることも出来るように輪行袋を携帯する。

内容/
折角の7月の三連休なのに、金曜日時点の天気予報では近畿全般的にいまいち。ほぼ確実に一日中雨が降りそうにないのは初日のこの日、18日(土)くらい。
とりあえず18日(土)に走り、一番天気のヤバそうな19日(日)はパスして休養。20日(月)は、早朝に自宅~最寄りの駅間で雨が降っていなければ、輪行で“一日中雨が降らないという予報が出ている某所”まで移動し、そこを走る・・・・という予定を立てた。

・・・まぁ、今この文章を書いているのは20日(月)・・・結果的に三連休で走ったのは、“この18日(土)だけ”になったが・・・。
19日(日)の大阪は日没頃~夜中まで雷雨。
“狙っていた”20日(月)は、夜明け直前に一旦雨がやんだものの、予定していた輪行先の某所が朝一時雨の予報に変わって断念(ついでに夕方~夜に雨の予報)。大阪市内でも夜明け直後にまた一時雨が降ったりして、結局行かなくて良かったかも・・・と相成った。

・・・で、18日(土)の時点では、20日(月)に走るつもりであったことと、前日からの仕事疲れもあって、疲労が蓄積しないように近場のポタリングで抑えておくことにした。
目的地は、大阪府東南部に位置する南河内郡の「太子町」。
古代大和では「近つ飛鳥」と呼ばれ、二上山西麓にあるこの太子町並びに周辺の「磯長谷(しながたに)」は広い古墳群が有ることから、現在では「王陵の谷」とも呼ばれている。

「近つ飛鳥」という地名は、712年口述筆記された「古事記」に記載がある。
履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというもの。「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさす。
「近つ飛鳥」の地は、難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道──竹内街道の沿線にあたり、周辺には大陸系の遺物を出土する6世紀中葉以降の群集墳が広がっている。
  (「近つ飛鳥博物館 公式HP」より・・・トップページは→ここ

初めに書いておくと、実際に走ったルート(青色)と巡った場所(丸数字)は下の地図の通り。

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全ての古墳を回ったわけではないし、太子町のメジャーな歴史的名所の○○峠と○○街道(←分かる人には分かるよね?)も後日に回し、主に聖徳太子に関係の有る場所を8箇所程“地味に”訪ねた次第。

さて、当日の話に戻るが・・・。

自宅~太子町間の距離は往復100km近くになるので、それほど“近場”というわけではないけど、往復自走のつもり。ただし、気が変わったりして帰途を輪行に切り替えることも出来るように輪行袋も携帯する。

自宅を8:45と、やや遅めの出発。
淀川右岸から鳥飼大橋(下の写真)を渡って南の左岸へ。

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近畿自動車道沿いの下の道、府道2号を使い、ひたすら大和川まで南下する。

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大和川までもっと近いルートが有るだろうが、府道2号は大和川までの南下ルートとしてはうってつけのように思える。
車道では、多くの自動車は基本的に高架の高速道路を走るし、それに沿った下の府道2号の道幅は広く、自転車が走るのにも余裕が有る。そういうわけもあってか、南に向かって快走する何台ものローディー集団を見かける。おそらく石川CR&葛城金剛・和泉山脈周辺に行くと思われる。
歩道は殆どの区間で自転車走行可。歩道も幅が広い。道沿いに商店がとても少なく、店舗の無い事務系の雑居ビルや工務店等々が多いせいか、大阪市街地にしては(休日の朝ということもあって)歩行者がとても少ない。多くの歩行者の間を縫って走るような行為は避けるべきだが、この時間帯のここの歩道は殆どの区間でそういう事態にならずに済みそうだ。
今回は小径車&ノーヘル&ノンビリ走行の組み合わせなので、車道を避けて自転車走行可の歩道をゆっくりと走ります・・・失礼(^^ゞ

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八尾市手前辺りから近畿自動車道は徐々に西寄りにずれるのだが、下の府道2号は引き続き走り易く、そのまま大和川の「第一明治橋」北端まで走る。
そして大和川右岸の土手に到着(下の写真)。時刻は10:45頃。2時間かかった。
↓対岸には「松原JCT」が有る。

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大和川右岸の土手のサイクリングロードを上流に向かって東進する。

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当然ローディーが多い。写真を撮っていて、邪魔をしそうになってしまった・・・失礼(^^ゞ
そういうわけで、“撮影自重”で石川との合流地点まで走る。
近鉄道明寺線の踏切を渡ったところで大和川とはおさらば。

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↑↓「新大和橋」を渡って、左岸へ。

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同時に石川左岸の石川サイクリングロード(八尾河内長野自転車道)に入って南下。
↓サイクリングロードを使って南へ。

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石川CRを走るのは3回目くらいかな?大阪市街地を抜けるのが面倒で、なかなか来る気になれず、久しぶりだ。ロードバイクで来たことはまだ無いな・・・。過去はMTBかクロス・バイクで・・・。この小径車では初めてだな。
上の写真は比較的地味な区間だが、きれいな河川敷公園とかも有って、なかなか良い所だ。
ローディーが思ったよりも少ないのは、既にこの時刻に多くが葛城金剛・和泉の山々に突入しているからだろう。

↓程なくして「河南橋」の手前に到着。ここで石川CRとはおさらば。

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↑右手の坂を登って、
↓「河南橋」を渡り、石川右岸へ。

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そのまま府道32号へ。

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↑ここの歩道は自転車走行が認められていない(と思う・・・たぶん)。
府道32号は交通量がそこそこ多い。国道166号と組み合わせた、奈良県葛城市方面と大阪府富田林市とを結ぶ最短ルートで、有料の南阪奈道路を避けることも出来るからだろう。スピードが速い。ダンプやトラック、バスのような大型車が結構通る。
にもかかわらず車道の幅に余裕が無いので、こういう一段高い歩道が有ると、車道走行には辛い。
↓こういう風に、むしろ無い方が走り易いな。

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以前一度、電車&バス&徒歩で「叡福寺」に参拝したことがあるが、叡福寺の前のこの府道32号の交通量が多かった記憶が有る。その記憶の通りだ。
・・・で、府道32号を東へ2km強ほど走って・・・。
 

『叡福寺』に到着。時刻は11:50頃。

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『叡福寺』
真言宗単立寺院。
山号は「磯長山(しながさん)」。
新西国三十三ケ所霊場(客番)・河内西国霊場(21番)・河内飛鳥霊場(15番)。
推古天皇の勅命で、聖徳太子廟の“香華所(こうげしょ)”を建てたのが草創。のちの724年(神亀元年)に聖武天皇の勅願によって、東に「天法輪寺」、西に「叡福寺」の大伽藍を並べた。(このことは正史には見えず、史実かどうか定かではない。叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見かたもある。)しかし、1574年(天正2年)に織田信長の兵火にかかり全山焼失。1603年(慶長8年)に後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が「聖霊殿」を再建。順次復旧された。
「叡福寺」は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝しており、平清盛は子息の平重盛に命じて堂塔の修理をさせている。また、日本仏教の祖ともいうべき聖徳太子の墓所があることから、空海、親鸞、日蓮など新仏教の開祖となった僧たちもこの寺に参篭したことが知られている。
また「叡福寺」は「上の太子」とよばれている。ちなみに「中の太子」は羽曳野市野々上の「野中寺」、「下の太子」は八尾市太子堂の「勝軍寺」である。「太子まいり」と呼ばれ親しまれている。

↓石段を登ると「南大門」。

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↑↓「南大門」をくぐる。

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1574年(天正2年)の兵火で焼かれ、慶長年間に再建。腐朽のため昭和33年再々建築した。左右に金剛力士を安置している。
この「南大門」を上がると一直線上に「二天門」と「聖徳太子の御廟」が見える。

左右の仁王像が、何となく華奢な気がする。
↓阿の像。子どもが喧嘩で「何だよー!」と腕を振り上げた感じに見えてしまう。

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「僕、怒ってるんだぞ!エィ!」みたいな・・・(←バチ当たるかな?)。

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↓吽の像。

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阿の像よりかは、マシだが・・・。

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華奢に見えるのは、腕が細いからかな?腹もあまり出ていないし・・・。

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よく有るメタボ腹の仁王像よりかは、体形的にマシなのだが・・・。しかし・・・腕と胸にもう少し筋肉を付けなさ~い。

門を抜けると、白砂が敷かれた綺麗な広い境内に出る。

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↓左斜めに「金堂(本堂)」。

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ちなみに、上の写真の左手に写っているのは「宝蔵」。聖徳太子の遺品を見ることが出来る。

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本尊は聖如意輪観世音菩薩。
小屋裏に残されていた棟札から、1732年(享保17年)に再建されたことが明確で、この棟札と共に大阪府指定文化財となっている。
 

南大門の左に「多宝塔」↓

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1652年(承応元年)の再建。
重要文化財。

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↓正面に進む。「聖徳太子廟」に向かう。

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石段を登り、「二天門」(下の写真)をくぐる。
「二天門」は、1688年(元禄元年)丹南藩主・高木主水正が寄進したもの。

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門をくぐった脇に2体の守護神が・・・。↓
「二天門」の名は、この二人の「天」から来ているのだろう。

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↑上の写真では左右逆になっているが、聖徳太子廟に向かって右がおそらく持国天(上の写真の左)、一方の左が増長天(上の写真の右)だと思われる。

↓さて、「二天門」の正面が「聖徳太子廟」。奥が古墳「叡福寺北古墳」となっている。

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『叡福寺北古墳』『聖徳太子廟』
聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により天皇家の陵墓に指定(磯長陵)されている。
明治12年、学術調査がなされた。聖徳太子の墓所とするのは後世の仮託だとする説もある。古墳は約直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆製(麻布を漆で貼り固めたもの)の棺には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされている。明治12年の修復調査が実施された際に、横穴入口をコンクリートで埋めてしまったため、中を調査する事は困難である。また調査の際に、棺は確認できたが、遺骸は風化して残っていなかったとされている。
墳丘の周囲は「結界石」(柵の向こう側の石柱)と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。この結界石のもとは空海が百か日の参篭を行ったとき、一夜にして築いたと伝わる。石柱には経文が刻まれており、現在のものは江戸時代に作られた。2002年に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3カ所発掘された。2002年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。

聖徳太子は622年(推古天皇30年)2月22日に没している。
寺伝によれば、聖徳太子は生前、620年(推古天皇28年)にこの地を墓所と定めたという。621年(推古天皇29年)に穴穂部間人皇后が没するとここに葬られ、翌年、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたという。上述のように、太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。

何年か前、聖徳太子は実在しなかったという説が巷に出、話題になった。
その真偽はともかく、この記事において“従来の日本史”通りに聖徳太子を扱うことにする。

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↑廟の正面、扉の上には“阿弥陀三尊”のご来迎をあらわした木彫りの額がかかっている。叡福寺の玄雅が1746年(延享3年)に寄進したもので、“三骨一廟”の意味を表しているという。
聖徳太子の墓が何処に有るか、ってあまり知られていないのではないかな?僕は、「叡福寺」の存在を知る前は「法隆寺」に有るものだと思ってたよ(^^ゞ

↓「聖徳太子廟」の右隣り(東)に「浄土堂」。

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慶長2年(1597)再建。
本尊は、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三尊。
弘法大師が参籠の際に、九十九夜にわたって御廟の中から音楽が聞こえ、三尊が来迎したという話が残っている。
 

↓更にその右隣り(東)に「見真大師堂」。

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「見真大師堂」は他の堂宇と同じ1603年(慶長8年)に再建されたといわれているが、現存の建物は明治45年(大正元年:1912年)に再建築されたものという。
この堂には親鸞聖人の坐像が祀られているが、これは聖人自身が刻んだものとされている。
 

「二天門」の外に出る。

↓「聖霊殿」。「金堂」の裏(北)に有る。

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「聖霊殿」は「太子堂」とも呼ばれ、聖徳太子の十六歳像を祀っている。この像は宮中にあったものを、1187年(文治3年)に後鳥羽天皇により下賜されたもの。
縁高欄擬宝珠によって、1603年(慶長8年)に豊臣秀頼が伊藤左馬頭則長を奉行として再建したことが知られている。
昭和52年に国の重要文化財に指定された。
 

↓「念仏堂」。本尊は阿弥陀如来像。

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↓「弘法大師堂」。

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先程の「見真大師堂」は親鸞で浄土真宗、「弘法大師堂」は空海で真言宗・・・。両者に関する建物が同じ境内に有るのは珍しい気がする。

それにしてもよく手入れされた境内だ。白砂と松の木が美しい。

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時刻は12:15。境内隅のベンチで補給食を食べて一休み。
「叡福寺」には観光客も来るが、近所の方も散歩で寄るようだ。今は昼だが、朝一番とか、夕方の参拝することを日課にしている地元の方が多いのではなかろうか。
 

さて「叡福寺」をあとにし、府道32号を挟んで南の「西方院」に向かう。
↓「叡福寺」の山門、石段の最頂部から見た「西方院」側。

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向こう側にも石段が有り、その登った先が「西方院」。

↓その石段の下、府道32号沿いに『隔夜堂』

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「隔夜堂」は「叡福寺」に属しているようである。
堂の中には阿弥陀如来石仏が安置されているとのこと。
・・・ん?上の写真の右下に、ランドセルを背負った聖徳太子が~~。
「隔夜堂」右前に「聖徳太子御乳母三尼公御廟所西方院」と彫られた、大きな石柱(下の写真の左)が立っている。

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・・・で、「隔夜堂」脇から奥の石段へ。↑
石段を自転車を押し上げながら「西方院」へ向かって登る。↑
↓石段を登り切り、振り向いて「叡福寺」側を撮影。

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↓で、『西方院』に到着。時刻は12:25頃。

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『西方院』
山号は「南向山」。寺号は「法楽寺」。正式には「南向山 法楽寺 喜多院」。
現在は浄土宗。
新西国霊場第八番札所。
聖徳太子の死後に、その乳母であった月益姫、日益姫、玉照姫(それぞれ蘇我馬子、小野妹子、物部守屋の娘とされる)の3人が、剃髪して仏門に入り、墓前にお堂を建立して、太子の冥福を祈ったのが寺の始まりと伝えられている。622年(推古天皇33年)の創建。
太子の墓所を望む高台で、思い出話をしながら生涯を送ったと伝えられている。
寺の南側の墓地内には、この三尼公の御廟と伝えられる3基の石塔が残されている。
江戸時代初期の1639年(寛永16年)、衰退し荒廃していた寺を蓮誉寿正尼が中興し、名称は「西方院」と改められた。
 (「太子町観光情報」「Wikipedia」より)

↓「本堂」。本尊は、聖徳太子作と伝える阿弥陀如来。

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↓「観音堂」。恵心僧都作と伝える十一面観音菩薩像が安置されている。

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なかなか小奇麗な境内の寺だな。

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「西方院」を出、民家の間の路地を抜けて南へ。

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狭いが、それが逆にいい感じになっている道を進む。

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田畑の間の狭い舗装路だ。

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長閑だ・・・。

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↓すると突然、交通量がそこそこ多い、広い道に出る。
↓ここは右折して下る(黄色の矢印)。

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↓下ったすぐ先に、次の目的地「近つ飛鳥博物館」の案内板が・・・。左折。

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↓今度は坂を少し上がる。

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坂を登った所で、また博物館の案内板が立っていて、右折。
↓案内板通りに進んでいく。

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里の中の通る、舗装路のような雰囲気。

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アップ・ダウン有り。
↓これ、登ったところ。

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真っ直ぐで伸びやかな道だ。

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山の手前で道は行き止まり。
その行き止まりに建つ、コンクリート打ちっ放しの立派な建物が・・・・。
 

『大阪府立 近つ飛鳥博物館』  (公式サイト→ここ

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13:00ちょい過ぎに到着。

『大阪府立 近つ飛鳥博物館』
「近つ飛鳥風土記の丘」にある人文科学系博物館。
エリア全体が遺跡博物館ともいわれる陵墓・古墳の宝庫「近つ飛鳥」の中核的文化施設として、1994年に開館した。
古代の国際交流と国家の形成過程をテーマとする。

「黄泉の塔」が聳える階段状の建物は安藤忠雄の設計。
自身の代表作として挙げるこの作品は、第26回日本芸術大賞他を受賞している。

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自転車を駐輪場所に置き、建物へ。
↓上の写真で斜めになっていた部分は階段になっている。

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↑歩いて「黄泉の塔」まで行くのはパス(^^ゞ
博物館内部の出入り口へは、上の写真の階段を登るわけではない。
脇の方に通路が有るので、案内に従って進む。

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↑上の写真の左手の、手前から2番目の壁の間の道が通路。そこから出、上の写真の右へ向かって行くと、
↓入り口。

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中に入る。涼しい・・・あ~~気持ち良い。
喫茶以外で、館内での飲食は禁止。とりあえず、喫茶でアイスコーヒーと抹茶ソフトを注文して一休み。

で、\300の入館料を払って中へ。

常設展示室は主に3つのゾーンに分けられている。

第1ゾーン(1階):近つ飛鳥と国際交流 - 倭の五王、聖徳太子の時代ほか
第2ゾーン(中地階・地階):古代国家の源流 - 埴輪、石室の世界ほか
第3ゾーン(地階):現代科学と文化遺産 - 修羅の保存、現代科学と考古学

写真撮影禁止のものも有るので、今回、常設展の撮影は一切しなかった(見に行ってください)。
写真が無いので、展示物を説明出来ないが、大修羅・梃子棒,大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の復元模型(直径10m、1/150),鹿谷寺石塔(高さ8m、十三重塔),竪穴式石室,横穴式石室,埴輪の露出展示(実物),銅鏡(4世紀)、須恵器(5世紀)、馬具(6世紀),聖徳太子の墓(横穴式石室)の復元模型等々・・・たくさん有る。
展示物はとても美しく配置されており、美術館のようだ。

↓特別展示室内は今回全て写真撮影が可能であったので、ここだけ撮影。

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現在、「大阪の古墳 ―最近の調査成果から―」と題して夏季企画展が催されている(7/11~8/2)。

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↓「入母屋屋根の埴輪」ですな。

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↓おぉ!鳥。ニワトリでしょうか。

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↓同じ家でもこちらは「切妻屋根の埴輪」。

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↓水筒ですか~。

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↓桑原西古墳群(茨木市)から出土した「陶棺」。

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↓「竪穴式小石室」。7世紀のものだそうだ。

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古墳と言うと奈良県明日香~山の辺道界隈のイメージが強いが、大阪府もかなりの数が有る。たくさん見るものがあった。
図書室,ミュージアムショップも有る。

府立博物館というわけで、あのH知事就任当初の“図書館以外不要”の矢面に立たされた施設の一つであり、今後どうなるか分からないが、近くに住んでいるのなら今のうちに見ておいてほうが良いかも・・・。

博物館の西から南にかけて『近つ飛鳥風土記の丘』が有る。
↓その遊歩道へ。

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自転車の乗り入れは禁止です。

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“マムシとスズメバチに注意”との看板がいたる所に有る。怖いですな~。
遊歩道から外れないほうが身のため。

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途中に幾つかの墳丘やその石室が有る。

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遊歩道を登っていく。展望台が有るので、そこを目指す。

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遊歩道の脇に有る横穴が、古墳。
風土記の丘全体が古墳群なのだ。

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未舗装部分の遊歩道も多い。

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第一展望台を目指す。山歩きっぽい感じになってきた。虫が飛びまくっている。

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↓途中にまたも墳丘。

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中には入りませんよ。マムシがいたらたいへんなので・・・。

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第一展望台への丸太階段。ここを登る・・・。

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が!途中でスズメバチ2匹を目撃。その2匹は丸太階段のど真ん中に止まって動かない・・・(・。・;
暫く待っても、動かないので・・・・第一展望台は諦めて、第2展望台へ・・・。
しかし第2展望台の途中で蜘蛛巣だらけ・・・。何となく嫌になって引き返す。冬にしか山サイをしないことから分かるように、僕は虫と蛇が大の苦手。寒くなった頃にまた来ることにする。
↓博物館のほうへ引き返す。

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気が付いたら時刻は14:00。
自転車に跨って「近つ飛鳥博物館」をあとにし、次の目的地「推古天皇陵」へ向かう。

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来た道を暫し戻り、程なくして“とある”分岐で狭い小道へ(下の写真)。
(分岐を説明するのが難しいので・・・記事の終わりの方に有る、リンクしている地図を見てください(^^ゞ)

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↑↓こんな所を抜けて走れるのは、自転車の良さですな。

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少し西へ向かう。

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途中で自動車も通る道に合流し、突き当りのT字路を右折。↓

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↓右折した方角の道を、T字路にて撮影。

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↓やや左斜め前に、こんもりと盛り上がった小さな丘と木々。

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↑これが「推古天皇陵」だ。
右折の方角の道をちょっと進むと・・・。
 

『推古天皇磯長山田陵』の入り口に到着。14:50頃。

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「推古天皇陵」前から見える景色はなかなかのもの。

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美しい、濃い緑色の棚田が広がる。

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いいですな~~、この田園風景。

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ホントに緑が濃い。

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↓参詣所の方へ向かう。

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↓その途上の右手の景色。推古天皇が見守っている景色と言えるかも。

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↓陵の正面。

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石段を上がって参拝。

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『推古天皇陵』
日本で初めての女帝である推古天皇は、聖徳太子を摂政とし、大陸の隋との交渉によって先進的な政治制度や文化、芸術などを積極的に吸収し、政治の改革や仏教文化を中心とした飛鳥文化を花開かせた。
「推古天皇陵」は、東西に長い三段築成の長方墳で、内部には2つの横穴式石室があると考えられている。
 (「太子町観光情報」より)

『推古天皇』
(すいこてんのう、554~628年(欽明天皇15年~推古天皇36年)
第33代の天皇(在位:593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日)~628年4月15日(推古天皇36年3月7日))。
額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。
天皇号を初めて用いた日本の君主であり、「天皇」は現在、日本皇帝の一般的な呼称として定着している(ただし、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている)。
第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。
『日本書紀』に「姿色端麗・進止軌制」(「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」、挙措動作は乱れなくととのって(進止軌制)いた)と記される。
571年(欽明天皇32年)に異母兄・渟中倉太珠敷皇子(第30代敏達天皇)の妃となる。
576年(敏達天皇5年)、皇后広姫の逝去を承け皇后に立てられ、585年(敏達14年)、35歳のとき、敏達天皇が没した(ただし『日本書紀』推古紀によれば18歳で皇后に立てられたとあり、これを採用した場合には欽明天皇32年(敏達天皇即位の年)に皇后となったことになり、広姫立后の記事と矛盾することになり、広姫立后記事か推古の立后時の年齢のいずれかが誤りの可能性がある)。
菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)ら二男五女をもうけた。
585年(用明元年)、殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたが、逆の方は殺されるはめとなった。
その後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、587年(用明2年)に病没後、穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、蘇我氏の勝利に終わった。そこで敏達皇太后が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。しかし、5年後の592年(祟峻5年)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、翌月に、先々代の皇后であった額田部皇女が、馬子に請われて、豊浦宮において即位した。時に彼女は39歳で、史上初の女帝となった。その背景には皇太后が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、馬子と皇太后がその動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている(だが、竹田皇子は間もなく死去してしまう)。
翌593年、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させた。厩戸の父は推古天皇の同母兄の用明天皇、母も異母妹(かつ生母同士が実の姉妹関係)の間柄であり、竹田皇子亡き後において厩戸が天皇にとって最も信頼のおける血縁者であったからだと見られている。
推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかった。ずっと後のことではあるが、624年(推古天皇32年)、馬子が葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世の人には私が愚かな女だといわれ、一方であなたも、不忠だと謗られよう」と言って、この要求を拒絶したという。
  (「Wikipedia」より)

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砂が綺麗に整えられている。

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↓天皇陵前の石段を振り返る。

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葛城山地の山並が連なっている。

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山の向こうは奈良県葛城市。

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山肌までよく見える。

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いい眺めっすな~~。
 

「推古天皇陵」の次は、すぐ近くの「二子塚古墳」へ向かう。
「推古天皇陵」に登ってきた坂道とは別に、三段ほどの石段と、続く田畑の間の細い舗装路が伸びている(下の写真)。
下の写真の自転車のすぐ傍にある石段を降りる。

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↑左手の茶色の小屋の向こうに小さな丘と林が見えるだろう。↓

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↑あそこへ行くわけ。田畑の間の細い舗装路を進む。
↓振り返ると「推古天皇陵」。この眺めは美しいな。

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田畑の間を抜けていく。案内表示板も有るので、迷わないだろう。

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↓「二子塚古墳」に近づいた(自転車の左手)。

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↑向かって左の木々と丘のほうへ・・・・。
 

『二子塚古墳』に到着。時刻は15:00頃。

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『二子塚古墳』
推古天皇陵の南東200メートルに位置する二子塚古墳は、方墳を2基つなぎ合わせた双方墳という珍しい形式を有している。東西の墳丘それぞれに、ほぼ同形同大の横穴式石室があり、石室の使用石材の隙間や表面に漆喰が充填塗布されている。また蓋の縄掛突起が退化したカマボコ形を呈する家形石棺がそれぞれの石室に納められている。
地元には二子塚古墳こそが本当の推古天皇と竹田皇子の合葬陵であるとする言い伝えがある。
 (「太子町観光情報」より)

アスファルトの舗装路は古墳の前で途切れ、シングルトラックに変わる。
石室の近くまで行ってみる。

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↓中をちょっと覗く・・・。

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↓シングルトラックを挟んで、向こうにもう一つの墳丘が有る。

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二つの墳丘の間にシングルトラックが通っているというのが正しい言い方だな。
↓シングルトラックからのもう一方の墳丘の眺め。

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もう一方の方にも行ってみようと思ったが、そちらへは草が結構生えていて、明確なシングルトラックは見当たらない。
しかも“マムシに注意”の看板が立っていたので、やめた(^^ゞ

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↓「二子塚古墳」から見た葛城山地。

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ここからも更に山肌がくっきりと見える。

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・・・とノンビリ見たくとも、先程の“マムシに注意”の看板にビビり気味で古墳をあとにする。

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コンクリートの舗装路になり、畦道の様な田畑の間の小道を進む。

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↓一面、緑~~。

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↓自動車の走行音のする道へ向かって進むと、広い道に出る。

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↑↓「南河内グリーンロード」だ。

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葛城・金剛の山々を走る、大阪南部のローディー御用達の道。
この界隈の峠で練習をするローディー達が、麓の区間の移動用によく使うらしい。葛城・金剛山地沿いに並行するように麓を走っている道だ。
僕は今回左折し、ほ~~~んのちょっと走るだけ。

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右手の反対車線の東側に、次の目的地「科長神社」へ向かう小道が有るので、すぐにそちらへ右折。
↓民家の間の路地を登っていく。

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道なりに進むと・・・・。
 

『科長神社』に到着。時刻は15:20頃。

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お祓い目的以外で、境内に車輛の進入は禁止。境内の外の駐車場らしき場所に駐輪する。

『科長神社』
科長神社は、平安時代の『延喜式』という書物に記録された、いわゆる式内社と呼ばれる由緒のある神社。
風の神である級長津彦命(しながつひこのみこと)・級長津姫命(しながつひめのみこと)を主祭神とし、他に配祀は、素盞嗚命・品陀別命・建御名方命・武甕槌命・経津主命・天児屋根命・天照大神。合祀は、天御柱国御柱大神・天児屋根命・品陀別命・八坂大神・道祖大神・保食神・菅原道真・市杵島姫命・天照大神。
江戸時代までは「八社大明神」とも呼ばれていた。
毎年7月24日から30日の間の日曜日の例祭には、神輿と地車5台が出されて賑わう。
また、当地は神功皇后誕生の地という伝承もあり、社宝に神功皇后雛形の兜がある。『式内社調査報告』では「科長→磯長→息長と転じ、息長氏の出である神功皇后の誕生地伝説が生まれたのではないか」と記している。
社宝には神功皇后が使用したと伝える雛形の小さな兜がある。
 (「太子町観光情報」「Wikipedia」より)

ちょうど、その例祭の準備であろうか、祭囃子の練習声と音楽が聞こえている。

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↑↓「本殿」。“三間社流造”である。

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一帯はかつて蘇我倉山田石川麻呂の本貫地で、社頭には小野妹子の墳墓が有る。
神社の境内の外、鳥居の右手から伸びている長い石段(下の写真)の上に「小野妹子之墓」が有るようだ。
上ってみる。

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石段を登り終え、右手に回ると、墳墓の正面。↓

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↓「小野妹子之墓」。

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『小野妹子』
推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物。近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族小野氏の出身。生没年不詳。
『日本書紀』(巻第二十二)によれば、607年(推古天皇15年)、鞍作福利らと大唐(「日本書紀では“隋”のことを“大唐”と記している)に渡る。608年(推古天皇16年)に随の使者・裴世清を伴って帰国、ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失し(紛失に関しては諸説あり、とても見せることが出来る内容ではなかったからであるとする説もある)、一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。 翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと再び派遣された。

『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、607年(大業三年)、隋の皇帝煬帝(ようだい)が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある。ただ、『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。

妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、「池坊流」の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されている。小野妹子は“華道の祖”とされることがある。
 (「太子町観光情報」「Wikipedia」より) 

さて時刻は15:35頃。
輪行で帰るつもりはやはり無く、予定通り自走で帰るつもりだが、かと言って日没前に帰宅したいので、もうそれ程色々回れない。
また別の機会に違う場所とルートで「近つ飛鳥」を走る際に寄ることとし、この日は最後に「用明天皇陵」に寄ってシメることにする。聖徳太子の父親の陵だからな・・・。今回は聖徳太子関係中心になっているし・・・。
 

↓「科長神社」をあとにし、“概ね”「叡福寺」の方角に向かう。

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「用明天皇陵」は、「科長神社」と「叡福寺」を結ぶライン上に有るからな・・・。ただ、真っ直ぐに繋がる道は無く、狭い道の幾つもの曲がり角をカクカク曲がることになりそうだが・・・。
「南河内グリーンロード」を横断して、その西側へ。
↓「推古天皇陵」が向こうに見える。

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↓左手に「二子塚古墳」も見える。

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でも、今撮影で立っている場所から先は行き止まりだった・・・。
↓こういうこと。

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迷走しながら「用明天皇陵」を探す。
↓上の地図の左上、バス停と書いた場所。・・・ここどこ?

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↓上の地図の左上の「酒店」と書いた場所の裏路地の様な道。

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↑でも、この道は正解みたい。
↓墓地の間を走る道を抜けていくと、広い道に出る。

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↑写真では文字が見えないが、青い道案内板の「富田林」と書かれた矢印と反対の矢印の右へ向かう。↓
↓下る・・・。

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↓道なりに進むと左手に綺麗な黄色い小砂利の敷地と林が・・・。

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↓これが『用明天皇陵』。16:00頃に到着。

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到着と書いたが、実は、すんなりここに着いていない。
実は初め「用明天皇陵」と気が付かずにスルー。少し離れてしまってから、周りを見渡した時に、周りと違う“それらしい丘と林”が見え、初めて場所が分かった次第。結果的に天皇陵の周りを大回りで一周回ってしまったよ・・・(^^ゞ

↓で、正面へ向かう。

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白砂の小道を進んでいくと、正面に到着。

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↓陵の正面。

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『用明天皇陵』
用明天皇は、『日本書紀』によれば、磐余の池上の陵に葬られるが、その後、593年(推古元年)に「河内の磯長の陵」に改めて葬ったと記録されている。
「用明天皇陵」は、東西65メートル、南北60メートル、高さ10メートルの方墳で、周囲には幅7mの空濠を巡らせており、この濠の外堤までを含めた規模は、一辺100メートルに達する巨大な規模を有している。墳丘規模や形は、蘇我馬子の墓と言われる石舞台古墳とよく似ている。
 (「太子町観光情報」より) 

『用明天皇』
(ようめいてんのう、不明~587年5月21日(用明天皇2年4月9日)。
第31代天皇(在位:585年10月3日(敏達天皇14年9月5日)~用明天皇2年4月9日(587年5月21日))。
『古事記』では、橘豊日命(たちばなのとよひのみこと)、『日本書紀』では、橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)という。
欽明天皇の第四皇子。母は蘇我稲目の娘の堅塩媛。聖徳太子の父。推古天皇の兄。
前代の敏達天皇が亡くなると即位した。敏達天皇とは違い、用明天皇は蘇我稲目の孫と言う事もあり、崇仏派であり仏法を重んじた。一方、危機感を持った廃仏派の筆頭である物部守屋は、欽明天皇の息子の一人である穴穂部皇子と通じていた。しかしながら、用明天皇は疱瘡のため、在位二年あまりの587年4月9日(古事記では4月15日)に死去した。
 (「Wikipedia」より)
    ↑この辺りの天皇系譜・・・凄いですよ(・。・; 

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さて、「用明天皇陵」をあとにし、帰路へ。時刻は16:10頃。
先程も書いたが、太子町並びに周囲も含めてまだまだ「近つ飛鳥」には見所がたくさん有るのだが、また後日ということで・・・。自走で日没前に帰宅したいので、帰る。

「叡福寺」経由の府道32号で石川CRまで西進。
府道32号・・・・自転車で走りにくい。小径車&ノーヘルだと緊張感が有る。この道、もう使いたくないな・・・。
↓「河南橋」に帰ってきて、石川左岸へ。

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橋を渡ったところで石川CRに入る。
あとは、往きの道をそのまま辿るつもり。
↓石川CRを北上。

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↓お~ぅ、カルガモ(◎´∀`)ノ

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石川CRから大和川右岸の土手のサイクリングロードへ。
↓「第一明治橋」北端付近まで戻ってきた。時刻は17:00。

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日没前に帰れそう。さらば、大和川。
↓近畿自動車道沿いの府道2号で北上。

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往きとは車線を変え、近畿自動車道を挟んで反対側の道で北上。
しかし、過去に一度鳥飼大橋まで走っているので、間違いない筈・・・という油断と、ひたすら走り続けて注意力が欠けており、気を付けなければいけない「東大阪JCT」の下で痛恨の左折。高い位置に有る自動車用の標示板をしっかり見ていれば気が付いたのだが、近くの正面しか見ておらず、視界の中に右上にある高速道路を何となく感じているだけで走ってしまっていた。JCTで大きく西へカーブしている高速道路につられ、「阪神高速東大阪線」と共に「中央大通」に入ってしまっていた。
でも、すぐには気が付かず、暫く走る。徐々に人とママチャリとクルマが多くなってきて、商店が建ち並ぶ道になって・・・「???あれれ??府道2号と雰囲気が違う・・・(・_・;)」と、道を間違えていることにようやく気が付く。やってもうた~、アホ~~。
そして見たことの有る風景が目に飛び込んできて、間違えた場所を悟った・・・「間違えた・・・あそこで左折したか・・・(・。・;」
↓その風景・・・。そう、ここは・・・。

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「大阪城公園」でした~~。
↓ついでに立ち寄る。・・・ここに寄ることになるとは思ってもいなかったよ。

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「なんで、太子町にポタリングに行ったのに、大阪城に寄ってんねん?!」
と、小声でブツブツと一人ツッコミを入れて「大阪城公園」から出る。
時刻は18:30を回っている。
すぐ近くの大川沿いの自転車道に出る。

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まさか、この道で帰るとは思わなかった・・・・。

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太子町と何の繋がりも無いのに・・・。ま、夏の夕暮れのいい感じのコースだけど・・・。
↓北上すると「毛馬閘門」に到着。ここから淀川沿いに東進。

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まさか、こっちの方角から帰宅するとは・・・。

結局日没してしまい、19:30に帰宅。

そう言うわけでこの日は、殆ど走ったことの無い大阪府東南部、「近つ飛鳥」の太子町の名所を見てまわり、色々と楽しめた。聖徳太子,推古天皇,小野妹子・・・歴史上のメジャーな人物が眠っている場所を生で見た・・・知ったということも意義深い。「近つ飛鳥博物館」も良かった。
この日に回った所以外に、太子町には歴史的に重要な名所や街道がまだ有る(特にあの○○峠と○○街道はいずれ行かないと・・・)。また周辺の羽曳野市や富田林市、河南町等にも色々と見所が有る。これからもこの界隈を走ってみたいと思う。
そのために使う道として、府道2号は淀川から大和川までそれ程ストレス無く走ることが出来る道であることが確認出来た。JCT付近でのお間抜けなコース・アウトには気を付けなければいけないが・・・。

まっ・・・、“いい感じの”軽く流したノンビリ観光ポタリングだった。
 

コース概略/自宅→淀川右岸土手・河川敷→鳥飼大橋→府道2→第一明治橋北端→大和川右岸土手サイクリングロード→新大和橋→石川サイクリングロード(八尾河内長野自転車道)→河南橋→府道32→叡福寺→西方院→太子町太子一般道→府道32→太子町葉室一般道→府立近つ飛鳥博物館・近つ飛鳥風土記の丘→太子町葉室一般道→太子町山田一般道→推古天皇稜→二子塚古墳→南河内グリーンロード→太子町山田一般道→科長神社→太子町山田一般道→用明天皇稜→府道32→河南橋→石川サイクリングロード→新大和橋→大和川右岸土手サイクリングロード→第一明治橋北端→府道2→国道308→中央大通→大阪城公園→土佐堀通→大川左岸サイクリングロード→淀川左岸土手・河川敷→菅原城北大橋→自宅
(太子町部分の地図→クリックしてください
(拡大可。太子町内の走った所のみ青色のラインで記載。自宅~石川CR間は省略。))

走行距離/99.69km
走行時間/6hr12min
平均速度/16.08km/hr
最高速度/42.10km/hr
Small Bike積算距離/818km
全Bike積算距離/16290km

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Comments

きっと神様は筋肉なくても力があるから大丈夫なのかも?
食べ物も質素だろうし・・・と想像。

昔からニワトリさんていたんですかね~なんだか不思議。
鶏肉とか食べてたのかしら??

聖徳太子といえば都内に関連したお寺?か神社があるとか。今度行ってみようかな~

« 投稿: しましま  2009年7月26日 (日) 13時52分

しましまさん>
そっか~~、神力に筋肉は不要ということですな。

ニワトリの埴輪は度々見つかるそうです。当時からいたのでしょうが、養鶏していたんでしょうかね~。

東京に有る太子ゆかりの寺社って知りません。
今度行ってみてください。

« 投稿: Katze  2009年7月26日 (日) 17時54分

神力に筋力は不要なら。。。脂肪はどうなんでしょうねぇ(;´▽`)  どこに行っても鳥類には反応してしまいますね(^v^) 18時30分。。。冬なら真っ暗ですね、「毛間閘門」。。。スルー出来ない文字です( ̄w ̄) サイクリング記事でこの文字が出て来ると即座に反応するクセが付いてしまってます(・∩・)

« 投稿: あさたろう  2009年7月26日 (日) 21時03分

あさたろうさん>
立っている仏像の多くは、胸板が薄くてお腹がポッコリです。なにか意味が有るのかもしれません。

「毛馬閘門」は、今後このブログの“禁止ワード”にしましょうか?アハハ!bleah

« 投稿: Katze  2009年7月26日 (日) 21時34分

大阪城のオマケが付いたのですねhappy02
こうして見ていると、歴史が多い町(なんか変な例え・汗)なんですね〜。今日、丁度いつも遊びに行く方のブログで「近くなのに知らなかった〜」って記事を目にしたばかりです(笑)→http://blogs.yahoo.co.jp/pinky_family2005/58481385.html
素人質問で申し訳ないのですが、折りたたみ自転車の様なタイヤの小さな自転車は「漕ぐのがしんどそう、、、」と思ってたのだけど、そうでもないのですね!(Katzeさんの自転車とそこらへんの折りたたみとは一緒にしちゃいけないでしょうが、、^^;)

« 投稿: てるちゃん  2009年7月29日 (水) 21時52分

てるちゃん>
予定より早くなりましたが、大阪南部に行ってきました~。

http://blogs.yahoo.co.jp/pinky_family2005/58481385.html
↑ちょっと覗いてきました。
通法寺は知りませんでしたが、源氏ゆかりの名所が羽曳野市界隈に有りますね。

折り畳み自転車でも、乗り方次第で結構進むようになりますよ。
(↑語ると長~~くなりますので省略ヾ(´ε`*)ゝ)
あと、僕の折り畳み自転車のペダルはビィンディング・ペダルと言って、シューズがペダルに固定されるんです。これですと、楽にクルクル回せるんですよ~。

« 投稿: Katze  2009年7月31日 (金) 00時25分

katzeさんの記事を読むといつも思うのですが、
歴史巡りに自転車は最適ですね(*´∀`*)
歩くにはしんどいし、自動車は小径に入れないし、
自転車ならその地の息吹を感じながら血の通った歴史を
感じることが出来そうです。
うん、日本って奥深いと再認識しました。
ウィキペディア見てしまって、次々に気になる項目を
見てしまいましたΨ(`∀´#)ハマるんですよね、歴史。
太子まいりに行きたいです。
阿吽像を見かけたらメタボチェックしてしまいそう(^^ゞ

« 投稿: アネモネ  2009年8月14日 (金) 10時47分

アネモネさん>
“自転車速度”は歴史スポット巡りにちょうどいいと思います。

ウィキペディアの魔のクリックにハマりましたね(^m^)

« 投稿: Katze  2009年8月15日 (土) 01時01分

 






 

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(石渡信一郎氏提唱の「倭韓王朝交差説」 http://blog.livedoor.jp/wakankousa/) [続きを読む]

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