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2010年3月28日 (日)

富田林・寺内町ポタリング 2010.03.22

年月日/2010年3月22日

バイク/GLOBE (SPECIALIZED) Small Bike

目的/大阪府富田林市の寺内町をポタリングし、江戸~昭和初期の町並みの雰囲気を味わう。

ポイント/往復自走。

内容/
この三連休は二日間グダグダしていて、ようやく最終日に自転車に乗る。
・・・で、今回も“花粉症ユルユルライド期間中”にあり、小径車で負担のかからない平地のノンビリポタリングになる。ただ、距離だけは100±10kmくらいは走りたいので、結局片道50km前後の場所に観光ポタリング・スポットがあり、その往復区間には特に立ち寄りたい場所もなくてひたすら走るだけ・・・、というプランを、貯めておいたストックの中から選択した結果、大阪府南部の富田林市にある寺内町(じないまち)のポタリングに決定。

寺内町は下の地図の赤色の丸印の辺りに位置する。
なお、実際には“寺内町”というのは行政上の名まえではなく、行政上は“富田林町”である。
それでは“寺内町”とはどういうものかというと・・・

寺内町(じないちょう、じないまち)とは、室町時代に浄土真宗などの仏教寺院、道場(御坊)を中心に形成された自治集落のこと。濠や土塁で囲まれるなど防御的性格を持ち、信者、商工業者などが集住した。
寺内町は自治特権を主張または獲得し経済的に有利な立場を得た。これらの特権は、1530年代に大坂の石山本願寺が管領細川晴元から「諸公事免除(守護代などがかけてくる経済的あるいは人的負担の免除)」「徳政不可」などの権限を得たことが始まりとされ、各地の寺内町が一揆を起こす理由ともなった。
門前町との違いは、門前町は商業地であること。
(「Wikipedia」より)

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富田林市の寺内町までは、大阪市街地を南下し、次いで大和川や石川沿いのサイクリングロードを辿るだけ。片道40km強で、途中に立ち寄りたくなるようなものが特に無く、全てフラットなコース。そして寺内町(富田林町)という狭い範囲のポタリングをし、同じ道で帰る・・・。というわけで、前述の要件を満たしているのだ。

勿論、自転車は折り畳み小径車のGLOBE (SPECIALIZED)。ただし輪行はしないので、輪行袋は持参しない(・・・てか、走って帰るのが面倒になって輪行に切り替えたりしないように、自身を追い込むため)。

自宅を7:30頃に出発。
鳥飼大橋で淀川左岸へ渡り、あとは府道2号をひたすら南下。第一明治橋の付近で大和川右岸の土手に出る(下の写真)。時刻は9:20頃。

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大和川右岸を上流方面に向かって少し進むと石川に出る。そこから石川沿いのサイクリングロードに入って、南下(下の写真)。

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この日の石川沿いの桜はまだ殆どが蕾だが、この記事を投稿した次の週明けには結構開花するかも知れないな。
咲いている花を撮影。

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石川サイクル橋まで来たところで、右岸に渡らずに、そのまま左岸を南下(一部ダート有り)。金剛大橋の左岸側手前で府道33号を横断する(下の写真の黄色の矢印)。

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ここから北西に位置する町が富田林町で、“寺内町”と呼ばれている一帯だ(下の地図参照)。

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石川沿いの向田の竹林の小道を抜けていく。途中で向田坂方面に向かう。城の石垣のような感じの場所も有る(下の写真)。実際に天守閣とかが有るわけではなく、自治集落として城塞化していた頃の名残であろう(これは「勝間家住宅」の石垣)。

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向田坂から寺内町に入る。

ここからは巡った順ではなくて、説明し易いように順番を変えました。
また、寺内町の全てのスポットを巡ったわけではなく、上の地図のやや太い字で書かれた場所のみ回りました。

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寺内町には約600軒の家が建ち並んでいるが、そのうち伝統的な建物は約50軒。
↓今昔一体の通りですな。左が古い家屋。右が現代の家屋。

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― 寺内町の起こり ―

寺内町・富田林が産声をあげたのは16世紀半ば、戦国時代のことである。
「杉山家」に伝わる文書には、<本願寺一家衆興正寺14世の証秀上人が富田の荒芝地を百貫文で申し請けたこと、周辺の4か村から集めた人々に開拓の指揮をとらせたこと>が記されている。
当時、河内は主戦場のひとつであった。寺内町・富田林には戦乱の世に生きるための知恵が随所に生きている。外周には土居を廻らし、竹を植え、四方に門を置く。この門は朝夕開閉され、町を守る役割を果たした。また町割は六筋七町。道と道は「あてまげ」といわれるように、角をずらして見通しを妨げている。
こうした町造りの工夫に加えて政治的な努力もなされた。戦乱の時代ゆえ、領主の交代がめまぐるしく、芝地代金を領主におさめたその手で、次に乗りこんできた武将方へ『酒樽四十と肴三種を祝いに届ける』といった配慮がなされた。
永禄5年(1562)、三好山城守へおさめた五貫文を最後に、土地代金納入問題は解決し、永禄11年、証秀上人は歩き出したばかりの富田林を見ながら隣村毛人谷で入寂された。やがて江戸時代には酒造業を中心に木綿問屋、紺屋染物業、油屋など軒を並べ活気のある商業の町へと変貌を遂げていった。
江戸時代には幕府の直轄地となり、近くを流れる石川の水運、東高野街道・千早街道が交差する陸運に恵まれて、商業の町として大いに発展。特に酒造業が盛んで、寛文のころの記録(1668年)では、51職種、149軒の店が軒を並べていた。
商いのみならず、寺内町は文化の町としての発展も遂げる。杉山家や御坊(興正寺別院)では能や浄瑠璃が盛んに興行され、町人の間では俳諧がブームとなった。また、周囲の農家の前栽には葡萄が栽培され、その葡萄から出来たワイン(葡萄酒)を寺内町の名産にするなど、寺内町には、自由で新しい時代を拓く気風が満ち溢れていた。

「町中 くわえきせる ひなわ火 無用」

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この道標は、京都から高野山に通じる東高野街道の道しるべとして建てられたもので、刻字から宝暦元年(1751)11月の建立であることが分かる。
室町時代の末期、石川の段丘上に建設された富田林寺内町は、江戸時代を通じ、南河内随一の商業都市として発展し、東高野街道を通って多くの旅人が行き来した。
『くわへきせる』(きせるとは、きざみタバコを吸うための道具で、今でいうくわえタバコのこと)や『ひなわ火』(竹・ひのきの皮の繊維を縄状にして、硝石を吸収させ火種としたもの)は、当時の旅人が携帯した必需品の一つで、江戸時代の旅の風俗をよく表している。
道標に刻まれた銘文は、町の中での火の用心を呼びかけたものである。寺内町には、わらぶきの民家が密集し、高台ゆえに水の便が悪く、町全体が火事の予防に細心の注意を払ってきた。この道標以外にも、北の一里山町や富山町には用心掘と呼ばれる防火用水の施設が有り、町衆が共存共栄の精神で町を守ってきたことをうかがい知ることができる。
寺内町には、今なお30棟余りの江戸時代の建物が残されている。大火が無く、古い町並みが残ったのも、一つにはこんな気づかいがあったからかも知れない。
(富田林教育委員会案内板より)

狭い路地しかでしか隔たっていない町屋で火事が出たらたいへんですからね。あっという間に町ごと全焼ですしね。

寺内町でとりわけ昔の面影が残っている通りが、興正寺別院前を南北に通る「城之門筋」であろう(下の写真)。

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昔ながらの家はこの城之門筋が一番多い。日本の道百選に選ばれている。

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↓右手に有るのが、その興正寺別院。

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「興正寺別院」 - 富田林御坊

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富田林寺内町は、永禄年間(1558-1570)証秀上人によって開発された一向宗興正寺別院を中核とする宗教自治都市である。富田林御坊の建立を発意した証秀上人は、石川の段丘上にある荒芝地を銭百貫文で取得、近住の4か村の庄屋株2人ずつ、計8人に興正寺別院の建立と畑屋敷、町割などの建設を要請し、御坊の町が形づくられた。
興正寺は、正式には「興隆正法寺」といい、京都の山科にあったが、天文元(1532)年に焼没の後、蓮教の子蓮秀が天満別院を興正寺の本寺とした。蓮秀の子が証秀上人であったことから、この寺を別院と称した。
この寺は、表門を東西に構え、鐘楼、鼓楼を表門の南北に配し、正面西方に本堂、その北側に客殿や庫裡を配する。
現存する本堂は、寛永15(1638)年に、また書院と庫裡は文化7(1810)年に再建されたものである。表門は桃山時代のものと伝えられ、鐘楼と鼓楼は文化7年に現在の場所に移し替えられた。また、本堂の外陣には、狩野寿石秀信の筆による襖絵が残されている。
現在では、創立期の遺構は全て失われているが、ほぼ最初の寺地を保ち、しかも真宗道場形式の本堂としては府下最古の遺構で、旧寺内町の中核として拡張と景観を見せる建物である。
(「河内ふるさとみち」案内板より)

今回の寺内町ポタリングの重要スポットでありながら、山門が固く閉ざされているようで、入らなかった。あとで分かったが、実際には横の扉から自由に出入りして良かったようだ。・・・残念。
後日ネット調査で見つけたサイト→http://www5d.biglobe.ne.jp/~heritage/Koushouji.html
(結構詳しく写真で紹介されているので参考までに)。

↓楼鐘が通りから見える。

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さて、寺以外で内部を見学させてもらえる家は2軒しかない。一つは「旧杉山家住宅」。もう一つは「勝間家住宅」である。
先ずは「旧杉山家住宅」へ。

「旧杉山家住宅」 重要文化財

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杉山家は寺内町創立以来の旧家で、代々「杉山長左衛門」を名乗り、江戸時代を通じて富田林八人衆の一人として町の経営に携わってきた。旧来の家業は明らかではないが、貞享2(1685)年に酒造株を取得した後は、造り酒屋として成功し、当初三〇石であった酒造石高は元禄10(1697)年に百四石、天明5(1785)年には千百三石と著しい発展を遂げている。

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江戸時代の屋敷図によると、杉山家の屋敷地は町割の一画を占める広大なもので、その中に主屋を始め酒蔵、釜屋、土蔵など十数棟が軒を接して建てられており、その繁栄をうかがうことができる。現存する主屋の建築年代は、土間部分が17世紀中期で最も古く、その後に座敷や2階部分を増築し、延享4(1747)年ごろほぼ現状の形に整ったものと考えられている。

↓煙だし越屋根と虫籠窓。

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富田林寺内町の古い民家は農家型の平面構造をとり、煙返しなど農家的な技法も見られる。旧杉山家住宅はこれら民家の中で最も古い遺構であり、規模も大きく質の良い商家の住宅として、昭和58年12月26日重要文化財に指定された。
(「河内ふるさとのみち」案内板より)

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↓改修後の1階の見取り図(パンフレットより)

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杉山家から著名な歌人が輩出されている。

202___s 「石上露子(いそのかみ つゆこ)」(1822~1959)

本名杉山孝(たか)。明治15年、杉山家の長女として生まれた。幼時から古典や漢籍、琴などに親しみ、短歌では22歳のとき『明星』でデビューした。古典の教養をもとに、華麗さの中に憂いを漂わせた作風。
明治36年に『新詩社』の社友になり、与謝野晶子、山川登美子、茅野雅子、玉野花子とともに「新詩社の五才女」と称された。思いこがれた初恋の人に対するかなわぬ思いを詠んだ“小板橋”は絶唱と評され、石上露子の名を不朽のものにした。
26歳で父親が決めた相手と結婚し、夫からは作歌活動を禁じられたため、文学界から身を引いた。後年に「明治美人伝」で紹介され、広く人と作品が知られるようになった。二人の息子をもうけたが、長男が病死、二男は自殺し、昭和34年(1959年)に78歳で死去した。

『小板橋』

ゆきずりのわが小板橋
しらしらとひと枝のうばら
いづこより流れか寄りし
君まつと踏みし夕に
いひしらず沁みて匂ひき

今はとても思ひ痛みて
君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば
あゝうばら あともとどめず
小板橋ひとりゆらめく

ちなみに映画「舞姫」(1989年,監督/篠田正浩,主演/郷ひろみ)の撮影がここで行われた。

「土間

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↑出入り口の扉を開けて中に入ると土間。その右手が「釜屋」(上の写真の左)と「下店」になっている(上の写真の右)。
現在、「下店」は受付になっている。参観料400円を払う。
↓「釜屋」の釜。

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↓その対面、土間に入って左手に「格子の間」(左)と「台所」(右)が有る。

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「格子の間」

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↑格子の間に掲げられた墨蹟は、山岡鉄舟筆による。(右から読む)「生前富貴学頭露身後風流怕上花」。明治時代に山岡鉄舟が杉山家を訪ねて書き残した作品。

杉山家は居室部を田の字型に並べる整形四間取りを原形とした農家型の平面構成を特徴としている。
この間は17世紀中期と古く、宝永年間(1704~1711)に奥の座敷と共に造られた。
土間の広敷と居室部分の境になる敷居に彫られた4本の溝は、四本全部を突きぬかずに、半間、一間、一間半と途中で止める「突き止め溝」という手法を用いている。
また4本の溝が切られた差鴨居も、それ自体が構造体になり得るもので、板戸1枚から3枚分の広さまで、必要に応じて柔軟に開けることが出来る。通りに面してはめられた格子は「親子格子(京格子)」といい、杉山家ではこの部屋のことを「こうしのま」と呼んでいた。格子の桟を目の高さで切ることで、外からの目隠しと採光、通風の両方が上手く機能する合理的な造りになっている。

↓その“親子格子”。

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↑自然光の入り方がいいね。

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↓梁に架けられている物は、火消し用の道具「鳶口」だろうか。

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鳶口とは、昔の火消しが携帯した道具で、延焼を止めるために、あえて建物を壊す際に使われた物。天井や屋根を壊す時に使われたそうだ。おそらくそれではなかろうか。

「店奥」

「格子の間」の隣の部屋。

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↑隣に「仏間」。

「仏間」

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↓襖や戸板に狩野派の絵が描かれている。

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「大床の間」

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宝永年間(1704~1711)に増築された大床の間を飾る二間の大床は、能の舞台を模して造られたものである。けやきの板を漆で仕上げた床板は、真ん中を少し持ち上げて水平に見えるように工夫されている。周囲の壁には、桂離宮と同じ赤味がかった「大阪土」が塗られている。

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障壁画は、増築から約百年後の文化文政年間(1804~1830)に大阪の画家で狩野派の流れをくむ狩野杏山守明(かのうきょうざんもりあき)によって描かれた。

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↓大床の対面の襖。

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波に千鳥を描いた襖絵も同時代のもので、明星派歌人として活躍した石上露子(本名・杉山孝)のペンネーム「石川の夕ちどり」は、この襖絵にちなんだものといわれている。

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↑かわいらしいね。

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「座敷」

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こちらの絵もいいですな。

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↓吊り棚の襖絵。

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↑自転車乗りとしては、この道を登って峠越えをしたら凄く楽しいだろうな~・・・、と思ってしまったりして・・・(-_-;) 現代であれば、右側にガードレールが無い危険な道ということになるが・・・。

「奥座敷」

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奥座敷の建築年代は小屋束の墨書によって、享保19(1734)年である。ことが分かっている座敷との境にある欄間は、狩野派の画家・大岡春卜の図案を薩摩杉に彫りこんだもので、元文2(1737)年に設えた。杉の磨き丸太を用いるなど簡素な造作は数寄屋風の建築技法で、構成も、違い棚、床の間、付け書院を同じ面に並べる珍しい造りになっている。南側の対面する茶室は、二畳中板の席で、北側に貴人口が有り奥座敷を待合室としていた。西側の増築部分は明治時代のもので、風呂と便所が有り、客人用とされていた。

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欄間の彫刻は上手く撮れていませんでしたので(ノд・。)、載せません。
茶室も立ち入り禁止のようで、写真は無し。客人用の風呂と便所も写真は無し~~(^^ゞ
↓奥座敷には縁側が有る。

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↓奥座敷から庭が見える。

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縁側を歩いて2階へ通じる階段の所に行くと、大太鼓。↓

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↑皮は破れちゃっていますな。
直径90cm。
文化13(1816)年に作られたもの。
胴の内側には張り紙や墨書きが有り、400人近い名前が書かれている。それらの人達とこの太鼓の関係は分かっていないとのこと。
調査の結果、もとは渡辺村(現大阪府浪速区)の浄土真宗の寺院・徳浄寺に有ったらしいが、何故、それが杉山家に残されていたのか分かっていないとのこと。

二階へ上がる。

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2階「展示室」

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2階は展示室になっている。
旧杉山家は富田林市が買い取り、文化財保存と一般公開のためにかつて解体(復元)修理が行われた。その時の模様が写真のパネルになっている。↓

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鎮札一組。
神の祟りに触れず、一家の安全と繁栄がもたらせるように祈るための呪い(まじない)の札。↓

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↓改修の際に外された釘。

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↑右下は昔の鎹。
↓改修時に外された昔の建材。

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↓修復前の瓦。

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↓修復で使われた瓦。

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らせん階段で2階から1階へ降りる。
降りると隣が「台所」。

「台所(だいどこ)」

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3月なので雛人形が飾られている。

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関東式に並んでいますな。

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土間から庭に出る。

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↓角屋の向こうに庭園が有る。

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↓先程の奥座敷の前に出る。

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↓庭園。

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庭園を抜けて行くと・・・。

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「米蔵」

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現在、内部は展示室になっている。

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当時の日用品が展示されている。

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↓石上露子の愛用品。

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↓これは何に使うのかな??

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↓奥に、大阪を代表する作家、織田作之助のコーナーが有る。

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218___13_s 織田作之助

1913年(大正2年)、大阪市南区生玉前町(現天王寺区上汐町4丁目27)にて、仕出屋「魚春」の織田鶴吉、たかゑの長男として生まれる。
1935年(昭和10年)頃、作家活動を開始。当初は劇作家志望で『嶽水会雑誌』に戯曲「饒舌」を発表したりしたが、スタンダールに影響を受けて小説家へ志向を転換。青山光二らと共に同人誌『海風』を創刊、1938年(昭和13年)には処女作「雨」を発表して武田麟太郎の注目を受ける。
1939年(昭和14年)3月に帰阪。長姉・タツの嫁ぎ先である竹中国治郎のもとへ寄寓する。7月15日、阿倍野の料亭「ちとせ」で宮田一枝と挙式し、南河内郡野田村(現・堺市)へ移る。尚、この時期、作之助は日本織物新聞社や日本工業新聞社(現・産業経済新聞社)への勤務を経験している。一方で作家活動も続け、1939年9月には『海風』6号に「俗臭」を発表。この作品は、義兄竹中国治郎の長兄・吉川重太郎の生涯に題を得たものだが、これが翌年、室生犀星の推薦で芥川龍之介賞候補作となって注目を集める。更に7月に発表した「夫婦善哉」(小説)が改造社の第一回文芸推薦作品となり、これを機に本格的な作家生活に入る。
戦時中には長編小説「青春の逆説」が発禁処分を受けたりしたが、当時の世俗を活写した短編「世相」を発表するなど、新戯作派(無頼派)の一人として活躍し、「オダサク」の愛称で親しまれた。
1944年(昭和19年)に妻・一枝を癌で亡くし、2年後に笹田和子と再婚した。
1946年(昭和21年)結核により死去。

織田作之助と富田林

織田作之助は一時期を富田林で過ごしていた。親しくしていた姉夫婦(竹中家)が富田林に転居してきた昭和20年以降、作之助は、現在の富田林市寿町にあった竹中家にしばしば身を寄せている。この時期、既に流行作家として日々に作品を発表していた作之助にとって、富田林滞在期はまさに円満のときであった。以後、昭和22年に短い生涯を閉じる二か月前まで竹中家の書斎を好んで文筆活動の場としていた。
これら作之助が使っていた物は、実姉である竹中タツさんから富田林市に寄贈いただいたものである。

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↑上段は絶筆になった「土曜夫人」の原稿。

さて、旧杉山家を出ると、通りの向かいに「寺内町センター」が有る。

「寺内町センター」

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無料の休憩所でもあり、寺内町マップ、町家の写真紹介、石上露子や織田作之助の紹介などパネルで展示・紹介されています。

現在、奥では雛人形が展示されていた。

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↑江戸雛の並びですな。

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京雛の仕丁(しちょう・じちょう)

京雛と江戸雛の違いは、お内裏様の並び方が違うと言われているが、仕丁の持ち物でも見分けられる。
江戸雛は沓台、台笠、立笠であるのに対して、京雛は箒、塵取り、熊手となっている(上の写真)。

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↓江戸時代の享保雛。当然京雛の並び。

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江戸雛の並びになるのは、大正以降だとされている。大正天皇が西洋式の王・皇后の並びにならったことからだそうだ。

↓昭和初期のお雛様。

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江戸雛の並びになっている。

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↓昭和15年の木目込みのお雛様。

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顔が・・・大福みたいでかわいらしい。

↓昭和25年のお雛様。戦後ですな。

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さて、「旧杉山家住宅」以外にもう一つ内部を公開している家へ・・・。

「勝間家住宅」

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勝間家住宅は興正寺を囲む寺内町に江戸時代末期、仲村家によって建てられた。明治7年同町の杉山長一郎氏が買い受け南杉山と呼ばれていた。古くから寺内町の南の守りとして高野街道の主要位置に在り、眼下に石川と金剛山を一望に見渡せる景勝地で城塞化されていたそうである。明治43年に勝間家が買い受け現在に至っている。
本杉山家の後継者で歌人の石川露子(杉山孝)はこの南杉山の敷地に建てた自身の山荘(恵日庵)で詩歌を楽しみ暮らしていた。この恵日庵から続くつづら折りの小道を下ったあたりには露子の芸術の舞台となった小川や水車があった。水車の流れに架けた橋で夕暮れに恋人を待ち続ける心情を詠んだ「小板橋」は「明星」等で発表されその高い芸術性において称賛された。
建物を初め室内に配置された調度品や建具の多くは明治から昭和初期のもので、それぞれの時代に実際に使用されていたものだそうである。

↓門をくぐって玄関前へ。

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↓その左手。

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参観料200円を払って、中へ。

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↑こういうミシン、横浜の実家に小さい頃には有ったな。懐かしい~。いじると母親に危ないから!って怒られたものだった。

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↓上の奥の部屋の雛人形では有りません(撮影禁止)。別の部屋の雛人形。

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↑昭和初期のお雛様。
↓庭。

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ここで、思い出して欲しい。寺内町に入る前に石垣の写真が有ったが、ここの庭の石垣ね。

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茶会も催されるそうだ。

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ここで寝っ転がりたい(していません)。

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縁側でお茶を御馳走になりました。

他の家々は内部公開をしていないので、通りから外観を見るだけ。

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それでも充分。

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特に自転車でポタリングの時は、そのほうが“乗りながら雰囲気を味わえる”ので良い。

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ちょっとウソ・・・。
実は、結構押し歩きで散策しているんですけどね~(^^ゞ

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自転車に乗らないポタリング・・・って・・・(^^ゞ

「奥谷家住宅」

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当家は、代々屋号を「岩瀬屋」と称し、河内長野市の岩瀬から18世紀頃、この地に移住したと伝えられる。家業は材木商を営み、天保14年(1843年)の村方様子明細帳には、三代目「伊右衛門」の名が見られ、村役を務めていたと考えられる。また当家には、この三代目夫婦の肖像画が残っており、大変貴重なものである。

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敷地の東南端に主屋を東西棟に配し、敷地の周囲には土蔵、納屋、新座敷を配すなど、近世末の豪壮な構えをよく留めている。

「東奥谷家住宅」

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当家は西向かいにある奥谷家の分家である。本家2代目「岩瀬屋伊右衛門」の子「伊六岩長」を初代とし、油屋を営んでいた。
今の住宅は分家の時に建てられたもので、建築年代は文政9年(1826年)と伝えられている。
主屋は敷地の西南寄りに建ち、敷地の周囲には土蔵や納屋が配置されて現存している。
また、北側にある長大な土蔵は現在内部を改造して、借家の長屋となっている。

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「南奥谷家住宅」

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当家は北側に面する奥谷家(岩瀬屋)の分家で、本家6台目の時にこの家を起した。分家の年代は明らかではないが、明治時代の前半頃と推定される。
主屋は桁行6間半、梁行5間半、梁行3室並びの整形六間取り居室である。2階は床棚付き2室を設けるなど極度に発展しているが、表側は江戸時代同様低い2階構造となっている。屋根は切妻桟瓦葺で、煙出しは設けず、後方妻壁上部の窓によって煙を抜くようになっている。このように富田林寺内町には当家を初め、各時代を代表する建造物が数多く残されており、それらの変遷をみることによって地域における生活の移り変わりを知ることができる。

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↓堺筋は東西に走る通り。ここはクルマがちょくちょく往来するので注意。

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↓興正寺別院の鼓楼と花頭窓(かとうまど)が城之門筋と堺筋との交差点に見える。

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↑興正寺別院の鼓楼と堺筋を挟んで対面に・・・。

「杉田家住宅」

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当家は代々「樽屋善兵衛」と称し、もとは油屋を営んでいた。「善兵衛」の名は天保14年(1843年)村方様子明細帳に百姓代として載っている。
住宅の建築年代は不明だが、18世紀後期の建築と考えられる。また、主屋の西方や西北方には土蔵が所狭しと並んでいるが、その多くは油蔵であったと思われる。

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「田守家住宅」

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当家は屋号を「黒山屋」と称し、寛永年間にその祖先が黒山(現在の美原町)からこの地に移住してきたところからこの名をとった。明治中期頃まで、代々木綿屋を営んでいた。
主屋は18世紀前半の建築と考えられ、寺内町に現存する町屋遺構としては旧杉山家に次ぐ古い年代のものである。主屋の表側は大きく改造されたが、近年外観の復元がほどこされ、歴史的町並みに大きく寄与している。

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江戸時代の商家や民家は、“町人が武士を見下ろしてはいけない”とのことから本格的な二階を建築出来なかった。代わりに高さを抑えた中二階が造られ、主に物置き部屋として使われていた。
厨子 (つし)二階と呼ばれる商家の中二階は、厨子二階の形状や、通風と明かりとりのために設けられた虫籠 (むしこ)窓が特徴的である。
また、商家の屋根には竈 (かまど)の煙を出すため越し屋根 (煙だし小屋根)が設けられている。

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こんな感じで、ブラブラポタリング。

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寺内町の北に行くと・・・。

「じないまち交流館」

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1階は訪問者用休息施設。2階は地元住民の集会室(和室)になっている。
入館無料。

12:00頃になったので、ちょっと軽く昼食でも・・・。
↓「寺内町交流館」の向かいの店に入る。

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そばでも食べますか・・・。

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「常温そば」というものを注文。

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常温=室温程度ということで、温かくもなく冷たいわけでもない(ぶっちゃけ普通は“冷めた”と表現される)温度のそば。勿論、作りたてです。伸びていませんよ。
ダシがいい感じで、鴨肉も含めておいしかったですよ。

腹が満足したので、またポタリング。

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やっぱ、城之門筋が一番雰囲気が良いね。

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実際に人が暮らしている。もっとも、外を見知らぬ人(観光客)がウロウロする日常って、僕には耐えられませんけどね。

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「中井家住宅」

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当家は屋号を「布屋」と称し、呉服問屋を営んでいた。

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敷地は間口が15間、奥行が8間強である。主屋は幕末頃の遺構で、東向き、右勝手の造りである。規模は桁行7間、梁間4間で、居室は整形四間取りである。特に表側は古風に作られ、城之門筋南側付近の景観上、重要な点景となっている。

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「木口家住宅」

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古い町絵図によると、このあたりは宝暦3年(1753年)から安永7年(1778年)の間に区画が出来たと思われるが、当家の主屋の遺構は古風な面が多く、18世紀中期の築造と推定される。
敷地には江戸末期の土蔵2棟と明治期の離れ座敷が残っており、かつての繁栄がしのばれる。
当家は屋号を「木綿庄」といい、初めは木綿商を営んでいたといわれるが、4代前より瀬戸物商に転じている。

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↑ガラス戸の横に何か折り畳みされている台が少し見えているでしょ?
あれを倒して展示用のテーブルにするわけ。木口家の場合は木綿の反物、のちに瀬戸物とかを展示していたと思う。“あげ店”とか“あげ見世”と呼ばれている。
その折り畳みのテーブルがたたまれている壁が木のシャッターの様な感じになっているでしょ。あれを外すとショーウィンドウになるわけね。

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「北口地蔵尊」

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北口地蔵尊が祀られている場所は、西国三十三所観音霊場巡礼街道旧富田林村(寺内町)の北入口の角にあたり、古くから多くの人々の信仰を集め親しまれてきた。元は、道の南側にあり西向きで祀られていたが、車馬の通交が多くなるにつれ現在の地に移された。東北隅にある道標に「左 ふじい寺 右 まきのお寺」と書かれているのは、元々道の南側にあったものをそのままこちらに移し替えられたため、実際の方向とは逆になっている訳である。
地蔵尊の右側には「安永七年戊戌(つちのえいぬ)天四月初二日 俗名巳ノ喜兵衛」と刻まれており、1778年4月に巳ノ喜兵衛という人によって造られたことが分かる。
毎年8月23日に行われるお祭りには、夕方ともなれば200余りの献灯に明かりが灯り、昔はよ店もでる賑わいを見せていた。今ではそのような催しはなくなったが、夕闇がせまる頃から始まるご詠歌と鐘の音は、今も郷愁をさそう響きを残している。
(「富田林教育委員会」案内板より)

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まだブラブラする・・・(^^ゞ

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「仲村家住宅」

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富田林寺内町のほぼ南端に位置する旧家で、かつては屋号を「佐渡屋」と称し、享保19(1734)年以降は徳兵衛を名乗ってきた。初代徳右エ門は富田林八人衆の子孫に当たると伝えられる。
旧来の家業は明らかではないが、正徳5(1785)年に酒造株を取得後は、造り酒屋として著しい発展を遂げ、天明5(1785)年の酒造米高は河内国で最高の2135石に達した。寛政4(1792)年には江戸市場を対象とした酒造業の理事長に当たる「河内一国江戸積大行司」となり、江戸・徳川家にも献上された。寛政4年の古図によると、広大な敷地に母屋をはじめ、酒蔵、土蔵など数多くの建物があったことが描かれており、往時の繁栄ぶりを窺うことができる。
明治初年に酒造業を廃したため、現在では母屋と一部の付属屋を残すのみとなっている。

ちょっと西の方にも行ってみますか・・・。

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「浄谷寺」

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当寺は、正式には半偈山(はんけいざん)三仏院浄谷寺といい、寺内町の一画南会所町にある。融通念仏宗を唱え、大阪平野区にある総本山の末寺となっている。弘安9年(1286年)済戒真證(さいかいしんしょう)上人によって毛人谷町に開かれ、天正2年(1574年)に当地に移転し、今日に至ったとされている。また、史料には、慶長13年(1608年)に「大念仏道場」とあり、寛文6年(1666年)に総門徒の寄進により再興された記述が残っている。
境内右手に二尊堂があり、その中に応長元年(1311年)銘の石像地蔵菩薩立像が安置されているが、大阪府下でもたいへんめずらしい古い年号の地蔵として、昭和45年2月20日に大阪府指定文化財となっている。石像の両側に刻まれた文字によると、小比丘尼と真證という2人の報恩供養のために建てられたことがわかる。
また、庭の隅に永仁元年(1293年)の年号がある卒塔婆があり、当寺の歴史の古さをうかがわせている。
(「河内ふるさとのみち」案内板より)

境内に入る(興正寺のように山門の横の扉が閉まっていたらパスしたかも)。

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↓本堂

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↓鐘楼(外の通りから撮影)

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↓二尊堂

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時刻は13:00頃。昔の家々で“お腹がいっぱい”になったことですし、早めにそろそろ帰るとしますか・・・。

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向田坂から下り石川左岸沿いの竹林の間の小道を進む。

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↑これも単なる竹林ではないのですよ。
かつて戦国時代、有事にはこれを竹槍にするために植えられたのです。

やがて金剛大橋に出る。帰りは金剛大橋を渡って一旦石川右岸に出る。そちらの方がサイクリングロードに早く合流するからだ。
(↓金剛大橋から北の方角を見る。)

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橋を渡ったらすぐに左折して府道33号に入る。暫く走るとサイクリングロードとの合流地点に出る。
サイクリングロードに入って暫く走り、途中、サイクル橋で左岸に渡る。あとは来た道をそのままそっくり逆に辿り、無事に16:10に帰宅。

こうして富田林・寺内町のポタリングを終えて、江戸時代から古き町屋の面影を味うことが出来、結構満足した。
寺内町は自転車ではなくても、半日も有れば歩きで充分に回りきれる広さなので、さまよい歩くように・・・自転車ならばまさに“ポタリング”状態で、ブラブラするのが良いだろう。
注意する点は、狭い路地でありながら東西に走る小道ではクルマがちょくちょく往来するということ(南北に走る“○○筋”は殆どクルマは往来しないが・・・)。それらの道に立っている時には注意が必要だ。

大阪府内に住んでいて、天気の良い休日なのに、事前に出掛ける計画を立てておらず、でもとりあえずどこかをブラブラしたいな~・・・という時に訪れてみてはいかがでしょう。

↓今回、寺内町の事前・事後調査ではこのサイトがとても参考になりました。↓
http://www5d.biglobe.ne.jp/~heritage/index.html
遙かに詳細に書かれていますので、ご参考までに。
 

コース概略/自宅→淀川右岸土手・河川敷→鳥飼大橋→府道2→第一明治橋北端→大和川右岸土手サイクリングロード→新大和橋→石川サイクリングロード→石川サイクル橋前→石河左岸沿い清水町町道→金剛大橋前→富田林町(寺内町)→金剛大橋→府道33→石川サイクリングロード→新大和橋→大和川右岸土手サイクリングロード→第一明治橋北端→府道2→鳥飼大橋→淀川右岸土手・河川敷→自宅

走行距離/92.00km
走行時間/5hr49min
平均速度/15.84km/hr
最高速度/31.76km/hr
Small Bike積算距離/1192km
全Bike積算距離/18098km

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Comments

マンション住まいが長くなるとちょっと畳が恋しいし、格子の光の入り具合に憧れます。日本っていいな、と改めて思いました。ふすまの千鳥絵、可愛いし(^◇^) こう言う所でもつい鳥さんに目が行ってしまいますねぇ。
お雛様見ていて。。。つい大福餅が食べたくなってしまいました(不謹慎で(__))
今年、花粉少ないようですごく楽です。Katzeさんはどうですか?

« 投稿: あさたろう  2010年3月30日 (火) 10時44分

あさたろうさん>
今年の花粉症はかなり楽ですね。勿論、マスクや薬とかの防御もちゃんとやっていますが、殆ど症状が出ないです。もうそろそろ大丈夫かもしれません。

畳っていいですよね~。
一部屋ぐらいこういう素敵な和室が有ればって思いますが、余裕が無くて・・・。生活臭漂う部屋になっちゃいます。

あの大福みたいなお雛様が目につきましたか?アハハ。

« 投稿: Katze  2010年3月30日 (火) 15時40分

江戸時代から昭和初期の家や使われていた道具などの歴史が分かる面白い記事です。
その時代の物って古くて味があって雰囲気あって、見ていると言葉を失ってしまう程。
鳥さんの絵も可愛らしいですよね!現代の絵とはまた違う感じです。

« 投稿: MariRose  2010年3月30日 (火) 17時22分

MariRoseさん>
昔の日本画の鳥って結構かわいらしく描きますね。ちょっとマンガっぽい位に。

昔の道具とかは、何に使うのだろうと思うような物も有ったりして、興味深いものが有ります。

« 投稿: Katze  2010年3月30日 (火) 19時47分

私も大阪市内に住んでいますので、大和川・石川の南河内サイクルラインは良く利用します。


>富田林市の寺内町までは、大阪市街地を南下し、次いで大和川や石川沿いのサイクリングロードを辿るだけ。片道40km強で、途中に立ち寄りたくなるようなものが特に無く・・・・

との事でしたので、近辺の情報を。

大阪市内の南北移動には、長瀬川沿いの道を利用しています。
長瀬川は旧大和川の本流で、柏原市~八尾市~放出まで続きます。
長瀬には帝国キネマ長瀬撮影所跡や八尾には河内音頭発祥の常光寺もあります。

富田林からは千早赤阪村の下赤阪の棚田に立ち寄るのもお薦めです。棚田100選にも選出されています。
千早赤阪村中学校の裏です。

富田林の寺内町は3月13日、14日が雛めぐりでした。
街角のあちこちに雛人形が飾られます。
次回は祭りに合わせて行かれては如何ですか?

« 投稿: にも  2010年7月29日 (木) 11時38分

にもさん>
色々と情報ありがとうございます。

しかしながら、今回は富田林・寺内町がテーマですので、府道2号近くに何かスポットが有っても寄るつもりは有りません。僕は、テーマから外れるところには寄らない主義なのです。しかもご紹介いただいたスポットはいずれも府道2号沿いではありませんのでなおさらです。また、道沿いに何も無いからこそ、府道2号を選んだとも言えます。

折角いろいろ教えていただきながら、すいませんが、上記のようなわけです。

« 投稿: Katze  2010年7月29日 (木) 19時58分

 






 

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