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2010年11月 7日 (日)

広島・平和記念公園ポタリング 2010.10.31

年月日/2010年10月31日

バイク/GLOBE (SPECIALIZED) Small Bike

目的/広島駅前の市街地をポタリングする(←当初の目的はね・・・)。

ポイント/往復輪行。

内容/
10月最後の週末の関東~中部~西日本の天気はあいにく全般的に悪く、まず土曜日は関西では雨なので走れず仕舞い。日曜日も今いちのようだ。朝は曇っている程度だが日中は雨が降りそう。そんな中、広島県南部は日中でも30%と比較的降水確率が低い予報だ。早朝であれば大阪でもまだ雨が降っていないので、その間に出発し、最寄駅から輪行で広島市街地まで行ってポタリングをすることにした。帰りは大阪に着くと雨が降っていることになるであろうが、最寄りの駅と自宅までの短い間の距離で、もうそれで終わりだから濡れても、まぁ、いいだろう。

広島の観光地と言えば、自転車観光ということを含めてもあの「○島」が真っ先に思い浮かぶが、今回は初めての広島県内のポタリングということで、まずは駅前の市街地・・・「平和記念公園」や「原爆ドーム」「広島城」等々を中心に・・・先に巡ることにする。下の地図で言うと、駅から時計回りに、「広島駅」→「比治山公園」→「平和大通」→「平和記念公園」→「原爆ドーム」→「広島城」→「縮景園」→「広島駅」と言った感じで、ぐるりと回る予定。

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時間に余裕が有れば「○島」に渡って観光ポタをすることにする。今一つ中途半端になりそうな時間しか残らなければ、後日「○島」のポタリングは別に単独で行うことにする。

狭い移動範囲の中への輪行ポタリングなので、自転車は折り畳みの小径車 GLOBE (SPECIALIZED) を選択。約5ヶ月ぶりの出撃だ。

20101031ride_1s 早朝・・・と言うよりも夜明け前の4:45に出発。
最寄りの駅まで走り、駅で自転車を輪行袋にパッキング。折り畳み小径車だとパッキングが早いこと、早いこと。5分もかからない。

幾つかの路線を乗り継いで、新大阪駅に到着。
6:05新大阪始発のひかりレールスターで広島へ(右の写真)。天気が悪くなりそうな日曜の早朝なので、車内はとても空いている。
7:38に定刻通りに広島駅に到着。

広島駅に降り立つのは何年振りだろう。大学生時代・・・20年ちょっとくらい前だろうか。殆ど記憶に残っていない。ちなみにあの「○島」にはその時と、それ以降の10年くらい前には行ったかな・・・。でも広島駅で降りるのはホント久しぶり。

駅前で自転車をゆっくりと組み立て、7:50に出発(下の写真)。

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人は大きくて賑やかな街だけど、駅前は全体的にとても綺麗だ。ゴミゴミとはしていない。

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広島市街地の乗り物と言えば路面電車ですな。JR広島駅前からも始まっている(下の写真)。宮島口まで路線が繋がっているんですな。

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上の写真でも比較的新しいデザインの車両だ。昔ながらのレトロな車両もチラリと見かけたが、写真には納め損ねた。
更に、いかにも新しいデザインの車両も有る(下の写真の右側の車両)。

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ちなみに、広島電鉄(株)のHPはここ→「ひろでんアベニュー

さてさて、駅前から猿候川を渡る「駅前大橋」へ(下の写真)。

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幅が広いので、写真では普通の道のように見える。

『駅前大橋(えきまえおおはし)』
広島県広島市の猿猴川に架かる道路橋。
戦前から広島駅前には「駅前橋」という木橋が存在したが、現在地ではなくすこし上流側の松原町10番南交差点付近にあった。1933年(昭和8年)地元政財界の働きにより駅前橋が架橋、記念して右岸側に石碑が建てられた(現存している)。1945年(昭和20年)8月6日、原爆被災により落橋してしまう。
1949年(昭和24年)、広島平和記念都市建設法が公布・施行され、戦災復興事業として現在地に「駅前大橋」の架橋が決定、1956年(昭和31年)8月に開通した。当初は幅員30mが確保され市で最も広い幅員であったが、予算不足で照明は着けられなかった。数年後に照明はつけられた。
その後、老朽化・交通量増大や「広島駅南口地区市街地再開発事業」や「広島駅南口地下広場整備事業」に伴い架け替えが決定、1991年(平成3年)着工、2000年(平成12年)竣工した。幅員を50mに拡幅、車線を6車線から11車線にし、歩道も両側に6mとられ、ゆとりあるものとなった。
Wikipediaより)

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猿候川の下流側に二つの橋が見える(下の写真)。

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一つ下流側に架かる橋が「猿候橋」。その向こうの橋が「荒神橋」(下の写真)。

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「荒神橋」のほうは路面電車が渡っている(下の写真)。

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「駅前大橋」を渡ったらすぐに左折。「駅前大橋」から見えていた「猿候橋」の右岸側の袂へ・・・(下の写真)。

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『猿猴橋(えんこうばし)』
広島県広島市の猿猴川にかかる道路橋。現存する橋梁のなかでは市内最古のもので、被爆橋梁の一つ。
橋名の由来は「猿猴川に架かる橋」からであり、猿猴とは河童の一種。
左岸側はJR広島駅前にあたり、愛友市場・猿猴橋市場などがある。上流側に駅前通りの「駅前大橋」、下流側に広島電鉄本線が通る「荒神橋」がある。最寄の駅は左岸側にある広電猿猴橋町駅。昔は西へ道沿いにまっすぐ進むと京橋にたどりついたが、駅前通り(広島市道駅前吉島線)改良に伴い直進できなくなっている。
もともと西国街道筋の木橋だったが1926年3月に鉄筋コンクリート桁橋として永久橋化。1945年8月6日原爆被災(爆心地より約1.82km)。2009年現在、京橋,栄橋,比治山橋,荒神橋,観光橋と共に、現存する被爆橋梁の一つである。
最初の架橋年度は不明。広島藩主が浅野氏に替わってから京橋とともに参勤交代の主要ルートとなったことから、江戸時代初期には架設されていたようである。元禄年間、西国街道は猿猴橋へと抜けるルートに変更されると、東方から広島城下中心部に向かう玄関口として最初に渡る木橋となった。藩政時代において防衛上、橋の架橋は制限されており、この橋は猿猴川に唯一架けられた西国街道筋の橋であった。江戸末期の時点でその他の橋は、西国街道筋の己斐橋・福島橋(現存せず)・天満橋・本川橋・元安橋・京橋・神田橋、雲石街道筋の横川橋ぐらいだった。
明治に入ると國道四號筋に架かる橋として機能、1926年(大正15年)3月、鉄筋コンクリート桁橋として架け替えられた。贅を尽くした美しい橋で、橋名を記した四隅の親柱の上に地球儀にのり羽ばたく大きな鷲の像が、欄干には猿猴二匹が向かい合って1つの桃を掲げている銅製の飾りがついていた。その様子は広島一と言われ、渡り初めには遠方からたくさんの人が来たと伝えられている。金属製の飾りはその後、太平洋戦争中の1941年(昭和16年)金属回収令で取り外され、石造りの本体だけとなった。1945年(昭和20年)8月6日原爆被災。爆風方向に架かっていたため、一部欄干の破損があったものの落橋にはいたらなかった。そのため、広島市内から当時救護所に指定されていた東練兵場(現在の東区光町・若草町一帯)への避難経路として使われた。
戦後、欄干は一部直されたが、傷跡は今も確認できる。1956年(昭和31年)、駅前大橋完成に伴い主要幹線からは外れ交通量が減り、地元住民の生活道路として使用されている。また現在、親柱・欄干を架設当時のデザインに復元する運動を地元住民が中心となり起している。
Wikipediaより)

レトロな感じのデザインだな。橋の上の交通量はとても少ない。

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更に右岸沿いに下流の方へ・・・(下の写真)。

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次の「荒神橋」に到着(下の写真)。

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『荒神橋(こうじんばし)』
広島県広島市の猿猴川にかかる道路と軌道の併用橋。現存する被爆橋梁の一つ。
橋名は三宝荒神から。
中央に広島電鉄本線の軌道、その両側に車道と歩道がある併用橋。ここは広島県道164号広島海田線・広島県道37号広島三次線の重複区間であり、東詰の荒神三叉路・荒神陸橋と続くこの区間は市内でも有数の慢性的な交通渋滞地点である。
左岸側はJR広島駅前となる。上流側に猿猴橋、下流側に大正橋がある。右岸側で広電は本線と広島電鉄皆実線で分かれ、最寄の駅となる広電的場町駅がある。西詰から西へ道沿いにまっすぐ進むと稲荷大橋がある。
2008年現在、京橋・栄橋・比治山橋・猿猴橋・観光橋と共に、現存する被爆橋梁である。ちなみに、その中で唯一の併用橋である。
1912年(大正元年)[元号要検証]広島電気軌道開通に伴い単線の電車専用木橋として架橋。1939年(昭和14年)、道路併用橋に改修、鉄筋コンクリート橋として再架橋された。設計は広島市、施工は清水組。
1945年(昭和20年)8月6日原爆被災(爆心地より約1.90km)。爆風により欄干が破壊されたが落橋からは免れた。そのため、広島市内から当時救護所に指定されていた東練兵場(現在の東区光町・若草町一帯)への避難経路として使われた。その後、数度補修保全されながら現在も使用されている。
ここ数年広島駅前再開発が行われており、広電の軌道を駅前大橋に移す構想発表、MAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島の完成など、それらに伴う交通網の整備が予定されている。
Wikipediaより)

1940年竣工当時の「荒神橋」の写真→これ

こちらは交通量が多い。先程も書いたが、路面電車も通っている。広島駅前を出た路面電車は、この「荒神橋」で猿候川を渡る。
なお、この橋は県道37号上に有る。

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ちなみに道路上に路面電車の乗り場が有ります(下の写真)。

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まぁ、僕も一応大阪に住んでいるので、阪堺電車という路面電車を知っていますが・・・。

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さて、県道37号は「荒神橋」を左折すると猿候川沿いの道になる。僕もその県道を走る(下の写真)。今回はノーヘル&小径車なので歩道を走行(←自転車走行可なので)。

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今回見ただけなので“間違った感じ方”かも知れないが、県道37号は車道が結構幅広いので、街中ながら普通に車道を走っても割と走り易いように見える。路駐も結構少ない感が有る。道路上にクルマ以外に路面電車が走っていることもあり、それが逆に道路を分け合って整然と使う・・・そうしないと流れが滞るし危険だ・・・と思う体質が有るのだろうか。
一方、歩道も広く、殆どが自転車走行可になっている。迷惑駐輪も殆ど見当たらない。これが大阪であれば、歩道上にずらりと迷惑駐輪が並んで幅が狭くなり、迷惑駐輪以外にも不当で邪魔な物(店の立て看板やら幟みたいな物とか)が歩道上に置かれ、歩行者と自転車がその間を接触寸前で行き来する・・・という光景になるであろう。それに比べれば、断然通行し易い。
ところで自転車に乗っている達を見ていると・・・。ん~~、結構歩道を飛ばしていますな。見通しの悪いカーブを勢いよく曲がって飛び出したり・・・。一方、車道を走っている自転車は見かけないな。その辺は大阪と同じだ。

県道37号は途中で右折して猿候川から離れ、「比治山公園」のほうへ向かう。僕もそちらへ・・・。
途中、県道沿いに「比治山神社」が有る(下の写真)。

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『比治山神社』(HP→ここ
もと黄幡(おうばん)大明神と称し、比治山南の谷(俗称‐黄幡谷)に鎮座されていたが、1646年(正保3年)3月に現在の社地に移して鎮守社となり、藩政時代には稲荷町三組、東柳町、下段原村、竹屋町南裏、平塚、竹屋村などの産土神として祀られ、当時の藩府より毎年正月門松添木、九月祭礼湯立の薪木を寄付されるなど崇められていた。
明治元年、神仏分離令の際、社名をあらためて比治山神社と称し、明治4年拝殿を再建、明治5年村社に列せられ、明治40年に神饌幣帛料供進社に指定された。
昭和20年原爆により本・拝殿焼失、昭和29年に本・拝殿建立、昭和34年に神社本庁より別表神社に列せられた。

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祭神

大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)
  縁結び,商売繁昌,家内安全

少名毘古大神(すくなひこなのおおかみ)
  病気平癒,医療,針供養

建速須佐之男大神(たけはやすさのおのおおかみ)
  厄除,農業守護

市寸島比売大神(いちきしまひめのおおかみ)
  交通安全,海路安全,漁業守護

車折大明神(くるまざきだいみょうじん)
  学業

ここまでの無事を感謝し、これからの道中の安全を祈願するために社殿のほうへ。すると、そばで掃除をしていた巫女さんから挨拶をされる。手を合わせて祈り始めると、掃除をやめ、下の写真の中央に立っている紙垂(しで)の付いた棒を僕の頭の上に翳してきた(手を合わせている間は目を瞑っているので、その前後の巫女さんの動作でそうされていると感じた)。へぇ~・・・そういうことをしてくれるんだ~。恐縮です・・・みたいな。

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神社の前の県道37号(下の写真)。

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路面電車が走っていますな。

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神社からすぐに「比治山公園」の入り口が有る。

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上の写真の案内板に従って左手の登り坂に入る(下の写真)。

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クネクネと登り坂が続いている。ここはもう「比治山公園」敷地内だ。

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『比治山(ひじやま)公園』
京橋川の東岸に有る標高約70mの丘。
園内には「頼山陽文徳殿」「現代美術館」「青空図書館」「陸軍墓地」等が有る。

まだ9:00前で、上述の美術館等々はまだ開館していない。今回はスルー。

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ヘアピン・カーブで、結構登らせますな・・・。

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程無くして展望台に到着(下の写真)。

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猫がたくさんcatcatcat

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自転車を停めて写真を撮ろうと自転車から少し離れたら、猫が寄ってきた。特に上の写真の猫は真っ先に寄ってきた。他の近寄ってくる猫をちょっと威嚇したりして・・・。ここのNo.1かな。

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僕が餌をくれないので諦めて毛繕い。

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それでも自転車から離れない。

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周りの他の猫も毛繕い。

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少し観察していて気が付いたのだが、下の写真の猫がNo.2だと思われる。No.1に最も近い距離にいながらも微妙に距離感を保っている。No.1を見ているようで見ていないような・・・微妙な目線。

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おっと・・・猫はこれくらいにして、展望台なので、市街地の景色が見えるかな・・・。
お~~見えます、見えます。

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左手の南の方角には広島港が有り、海が少し見えますな(上と下の写真)。上の写真の左寄りの一番手前の島は「宇品島」だろう。

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広島駅前南側の市街地が広がっています。

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展望台の正面、西の方角の景色(下の写真)。

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展望台の突端へ(下の写真)。突端のほうが高さがちょっと低いけど・・・。

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「文芸の碑」が置かれている(下の写真)。

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古くから
比治山は広島をはぐくみ
見まもってきました
私たちは
広島とひろしまの文芸の発展を 願ってここに碑を建てました
この中には
ヒロシマの世紀にゆかりのある作品を納め 永く保存します
年ごとに その活動が大きな輪となり栄えていくことを祈ります

昭和五十五年五月五日
ひろしま文芸の会

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碑の裏には大木惇夫の詩が刻まれている。

日の暮れて夜明けまで
美はしや ヒロシマは
灯の海なるか
はた星の遊ぶ地か

大木惇夫

さて、この展望台の突端からのほうが、更に全景がよく見える。

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下の写真は「京橋川」。

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さて、比治山公園から降りて県道37号を横断し、京橋川を「鶴見橋」で渡る(下の写真)。下の写真の後ろに見ている林が比治山公園の有る丘だ。

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下の写真は「京橋川」。上流の方角。あの向こうで、「猿候川」とこの「京橋川」が分岐している。

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橋を渡る。かなり幅が広い。

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橋を渡ると、西の方角へ真っ直ぐと「平和大通」という名まえの通りが伸びている(下の写真)。

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歩道上に「平和の道」と彫られたプレートが埋め込まれている(下の写真)。

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『平和大通』
京橋川に架かる「鶴見川」から、「太田川」放水路の「新己斐(しんこい)橋」まで東西にのびる幅100m,全長4038mの道路。
車道の両側に緑地が設けられ、国内外から贈られた樹木が茂っている。

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歩道を走行(自転車走行可)。幅が広くて走り易い。ここも迷惑駐輪や不当な立て看板や幟は置かれていない。綺麗な通りだ。

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交差点の四つ角には、下の写真のような花壇が有る。

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綺麗ですな。

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ノンビリと気持ち良く走っていると「平和大橋」に到着(下の写真)。

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『平和大橋』
建立年月日:1952年(昭和27年)6月3日
建立者:広島市
設計者:イサム・ノグチ(アメリカの彫刻家)
形状:全長85.6m,幅15m。

平和大通りと橋の位置 1949年(昭和24年)に制定された広島平和記念都市建設法により、平和記念公園の南側には、市の中心部を東西に貫き、中央に車道、両側に緑地帯と歩道のある幅員100mの道路が建設された。1951年(昭和26年)11月、市民公募により平和大通りと名づけられ、供木運動で緑地帯の植樹も進んだ。
この平和大通りの平和記念公園への導入路に架けられたのが、元安川に架かるこの平和大橋と本川にかかる西平和大橋である。
橋の名称は、懸賞応募による1,400余点の中から決められた。
設計者のイサム・ノグチが、1984(昭和59)年に広島市を訪れた際に、次のように橋のイメージを説明してる。

「平和大橋は生を象徴する太陽の形を、西平和大橋は犠牲者が黄泉の国へ船出する死の象徴として船の竜骨をかたどった」

あまりに奇抜なデザインのため、市議会をはじめ市民から「イモ虫みたいな欄干で子どもが川に落ちて危ない」などの反対意見が出され、結局、欄干は当初設計より20cm高く変更された。総工費約1億円のうち、10%は欄干に要した。
丹下健三東大助教授(当時)は「私の設計した平和記念公園を引き立てる立派な橋だ」と賞賛した。
「広島平和記念都市建設法」の成立をきっかけに、アメリカの対日援助資金を受けて建設されたこの両橋は、他の平和記念施設の建設に比べ短期間で完成した。

「平和大橋」は元安川にかかっていて、下の写真は左岸側から見た右岸。あそこに「平和記念公園」が有る。あちらへ・・・。

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「平和記念公園」に到着(下の写真)。

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上の写真の向こうに見える建物は「広島平和記念資料館」。

広島平和記念資料館
細長い高床式の西館と渡り廊下で結ばれた東館とからなる。
廃墟と化した市街の模型や写真、原爆で溶けたガラスや瓦、人影が焼きついた石、ガラス片が突き刺さった壁など、生々しい歴史の証拠を展示している。

冒頭で書いたが、20年ちょっと前にここに来たことがある。資料館にも入館した。その生々しい展示もおぼろげながら記憶が有る。資料館は公園巡りの最後に寄ることとして・・・。
資料館の前に綺麗な花壇と噴水が有る(下の写真)。

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大きな噴水だな。

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『祈りの泉』
建立年月日:1964年(昭和39年)11月
建立者:広島銀行
形状:平和記念資料館本館の南側の広場で、原爆ドームと原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)とを見通すことのできる直線の上に有る。東西27m,南北19mの長円形の池に多数の噴水を設け、夜間は色彩照明を行う。
建立の目的:「水を水を」と言いながら息絶えた原爆犠牲者の御霊に捧げ、慰める心を込めて建設された。
上述のように、広島銀行が建設し、広島市に寄贈した。当時、西日本一の豪華な噴水と言われ、東西27m,南北19m,合計567本の噴水口が設けられ、毎分11tの水を10mの高さまで噴き上げている。夜間は赤、青、黄、緑、乳白色の水中カラーランプ153灯の照明で彩られる。
大噴水ができる前、現在の大噴水がある場所には、最初は小さな噴水池が有った。噴水池は1958年(昭和33年)4月、広島復興大博覧会をきっかけに、会場となった平和記念資料館(現在の本館)の南側正面に設置された。
当初は博覧会のテーマ塔を建てる予定であったが、たまたま協同組合連合会日本専門店会連盟から「原爆犠牲者の弔慰のための施設に使用してほしい」ということで広島市に100万円の寄付金が寄せられており、検討の結果、原爆犠牲者へ水供養する意味で、噴水池を造ることになった。

公園内へは自転車も乗り入れていいのかな・・・と観察していると、どうやら大丈夫なようだ。自転車で走っている人が散見される。資料館の東西館の渡り廊下の下をくぐって、公園内へ・・・(下の写真)。

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この公園内のことは以前来た時の記憶が殆ど無いな・・・。

『平和記念公園』(MAPは→ここ
原爆の爆心地に、永遠の平和を願って造られた公園で、「相生橋」を頂点に「平和大橋」と「西平和大橋」を結び「平和大通り」を底辺にした三角地帯に有る。
大通りに面して「祈りの泉」が有り、すぐ後方に「平和祈念資料館」、芝生の広場を隔てた公園の中央に「慰霊碑」が建ち、「平和の灯」が燃え続けている。
桜などの樹木が茂る公園には様々な碑や像が建てられている。

慰霊碑への道(下の写真)。場所が場所だけに押し歩きで進むことにする。

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完成年月日:1954年(昭和29年)4月1日
建設:広島市
設計:丹下健三(当時・東大助教授)ほか3名の共同作品
公園面積:約37,000坪

被爆前 現在の平和記念公園一帯(中島(なかじま)地区)は、江戸時代から陸海の交通の要衝として栄えていた。また、明治になると、市庁舎、県庁舎のほか、広島の物流の拠点となるなど、政治・行政・商業の中心となった。被爆時のこの地区7町の住民は、合計で6,500人と推定されている。
1945年(昭和20年)8月6日、人類史上初めて投下された原子爆弾は、この地区の頭上で炸裂した。地区の住民はもとより、当時この付近で建物疎開作業に従事していた多くの国民義勇隊や動員学徒が非業の死を遂げ、街並みも一瞬のうちに消え去った。
1949年(昭和24年)8月6日の「広島平和記念都市建設法(*)」の制定に伴い、この地区一帯は平和記念施設として整備されることになり、現在の平和記念公園に生まれかわった。
2007年(平成19年)2月6日には、中央の軸線のエリアが国名勝に指定され、近く公園内全体が名勝指定される予定である。戦後に整備された公園としては初めての国名勝となる。

(*)『平和記念都市建設法』
この法律は、恒久の平和を誠実に実現しようとする理想の象徴として、広島市を平和記念都市として建設することを目的としている。

以前来た時に慰霊碑を見た記憶が残っていないな・・・。TVに映っている式典の記憶しか無い。初めて生で見るのと同じだな。
「慰霊碑」とその向こうに「原爆ドーム」が見える(下の写真)。

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結構近くまで自転車で寄ってもOK。下の写真に写っている階段の上でも自転車で進入してもOK。

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ただ、どんな場所であるかをわきまえて・・・・。僕は押し歩き。

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『原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)
建立年月日:1952年(昭和27年)8月6日
建立者:広島市
設計者:丹下健三(当時・東大助教授)
材質:みかげ石「黒髪石」(石室部分),みかげ石「稲田石」(屋根部分)(1985年(昭和60年)の改築工事まではコンクリート製)
形態:屋根の部分は、ハニワの家型(犠牲者の霊を雨露から守りたいという気持ちからこの型にした。
建立の目的:世界最初の原子爆弾によって壊滅した広島市を、平和都市として再建することを念願して設立したもの。

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ハニワ型の屋根の下に死没者名簿を納めた石棺が有り、その正面に碑が立っている。上の写真にも写っているだろう。

碑文

安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから
(雑賀(さいか)忠義(ただよし)) 

碑文の由来について・・・
諸霊の冥福を祈る気持ちを誓いの言葉に結びつけることに苦慮した当時の浜井市長の命を受けた秘書係長が、碑文の古典研究に造詣の深い広島大学の雑賀忠義教授に碑文の作成を依頼し、翌日即決した。
碑文の趣旨について・・・
碑文については主語をめぐるさまざまな議論があったが、広島市は碑文の趣旨を正確に伝えるため、日・英の説明板を設置し、「碑文はすべての人びとが原爆犠牲者の冥福を祈り戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉である。過去の悲しみに耐え憎しみを乗り越えて全人類の共存と繁栄を願い真の世界平和の実現を祈念するヒロシマの心がここに刻まれている」と記している。

原爆死没者名簿について・・・
中央の石室には、国内外を問わず、原子爆弾に被爆し、亡くなられた方の名前を記帳した原爆死没者名簿が納められている。
名簿は関係者の申し出により書き加えられ、2007年(平成19年)8月6日現在で、91冊(253,008人の名前が記帳された90冊と「氏名不詳者 多数」と記された1冊)になっている。

で、慰霊碑の辺りにいると・・・小雨がポツポツ。・・・え~、降水確率30%だけど駄目か~。上空も黒い雨雲が広がり始めている。とりあえず、資料館のような屋内の施設は雨が降っても見れるから後回しにし、先に早めに屋外の見えるべき物を見てしまおう。

慰霊碑から原爆ドームのほうに向かって細長い池が伸びている(下の写真)。「平和の池」だ。

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『平和の池』
建立年月日:1957年(昭和32年)8月3日
建立者:日本青年会議所
形状:池は原爆死没者慰霊碑(広島平和都市記念碑)を囲み、碑が浮かび上がるように設計されている。幅17m,長さ70m。
建立の目的:第5回日本青年会議所会員大会が広島で開催された際の記念事業として建設。
日本青年会議所から広島市への贈呈除幕式の際、コイ100匹が放たれた。
建設当初は、慰霊碑の周囲三方を囲む、幅2mの池であったが、1964年(昭和39年)8月1日に「平和の灯」が設置された際、平和の灯建設委員会により、池の後方を幅17m,長さ70mに拡張され、現在の形になった。
池の清掃は、平和の灯奉賛会が毎年2回、7月末と12月末に清掃奉仕を続けている。

池の北端に大きなオブジェが有り、上に火が灯っている(上と下の写真)。

『平和の灯(ともしび)』
慰霊碑の後方、平和の池の北端に手首を合わせたような台座が有り、その上で聖火が燃え続けている。
地上から核兵器が消える日まで燃やし続けることを誓い、点灯された。
慰霊碑と原爆ドームの間で炎が燃え上がるように設計されている。

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建立年月日:1964年(昭和39年)8月1日
建立者:平和の灯建設委員会
設計者:丹下健三(当時・東大教授)
形状:台座は、手首を合わせ、手のひらを大空にひろげた形を表現している。高さ3m、幅13m、奥行き8m。
建立の目的:水を求めてやまなかった犠牲者を慰め、核兵器廃絶と世界恒久平和を希求するため。

全国12宗派から寄せられた“宗教の火”、溶鉱炉などの全国の工場地帯から届けられた“産業の火”が1945年(昭和20年)8月6日生まれの7人の広島の乙女により点火された。
この火は、1964年(昭和39年)8月1日に点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっている。
毎年、核兵器廃絶と被爆者援護の充実を訴えて、広島県内の市町村を一周する「平和の灯リレー」が行われている。
また、1994年(平成6年)に広島市で開催されたアジア競技大会の聖火に点火されるなど、各種行事において平和のシンボルとして採火されている。

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雨がポツ・・・ポツ・・・からポツポツと・・・本降りになりそうな予感。嫌だな~。折角来たのに~~。

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公園内をちょっとポタリング。勿論ゆっくりとね。

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公園内には色々な碑や彫像が置かれている。

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雨の心配がなければ、ゆっくりと全部回って、ここでも紹介したいのだけれども・・・。

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とりあえず代表的なものや目立つ物だけでも・・・。ちなみに案内MAPのサイトは→ここ。このページを見れば、如何にたくさんの“見るべきもの”が有るか分かるだろう。

公園の北端に「原爆の子の像」(下の写真)。

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『原爆の子の像』
建立年月日:1958年(昭和33年)5月5日(こどもの日)
建立者:広島平和をきずく児童・生徒の会
制作者:菊池一雄(当時・東京芸大教授)
形状:三脚のドーム型の台座の頂上に金色の折鶴を捧げ持つ少女のブロンズ像(平和な未来への夢を託している)が立ち、左右に少年少女の像(明るい未来と希望を象徴)がある。高さ9m。
建立の目的:佐々木禎子さんをはじめ原爆で亡くなった多くの子どもたちの霊を慰め、世界に平和を呼びかける。
碑文:

これはぼくらの叫びです 
これは私たちの祈りです 
世界に平和をきずくための

佐々木禎子さん 2歳の時被爆した佐々木禎子さんは、幸いけがもなく、元気で活発な少女に成長した。ところが、10年後の小学校6年生の時に突然白血病と診断され、8か月間の闘病生活の後、1955年(昭和30年)10月25日に短い生涯を終えた。禎子さんは「鶴を千羽折ると病気が治る」と信じ、薬の包み紙や包装紙などで1,300羽以上の鶴を折り続けた。病気を乗りこえ、懸命に生きようとした「サダコ」の物語は、ヒロシマの悲劇の象徴として、日本だけでなく海外でも広く語り継がれている。
禎子さんの死に衝撃を受けた同級生たちは、「原爆で亡くなったすべての子どもたちのために慰霊碑をつくろう」と全国へ呼びかけた。やがて、子どもたちによる募金活動が始まり、全国3,100校余りの生徒と、イギリスをはじめ世界9か国からの支援により、像を完成した。

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「折り鶴台(ブース)」
この「原爆の子の像」に捧げられる数多くの折り鶴を雨露から守るため、2002年(平成14年)4月に、像の周囲に新たに屋根付きの折り鶴台(ブース)が整備された。

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塔の内部に鐘と折り鶴のオブジェが有る(下の写真)。

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「鐘と金色の鶴」
塔の内部には、子どもたちの気持ちに感動したノーベル物理学賞受賞者の湯川秀樹博士の筆による「千羽鶴」、「地に空に平和」の文字が彫られた銅鐸を模した鐘がつられ、その下に金色の鶴がつるされ、風鈴式に音が出るようになっている(この鐘と鶴は2003年(平成15年)に複製されたもので、オリジナルは広島平和記念資料館東館1階ロビーに展示されている)。

近くに「平和の鐘」が有る(下の写真)。

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『平和の鐘』
建立年月日:1964年(昭和39年)9月20日
建立者:原爆被災者広島悲願結晶の会
設計者:香取正彦 (重要無形文化財保持者,人間国宝)
形状:
鐘:口径約1m,高さ1.7m,重さ約1,200kg。
鐘楼:宇宙を表現したドーム型の屋根が4本の柱に支えられている。
この梵鐘・鐘堂は、広島の悲願に立って、すべての核兵器と戦争のない、まことの平和共存の世界を達成することをめざし、その精神文化運動のシンボルとして造られた。

この梵鐘・鐘堂は、平和を願う万人の心と浄財を結晶させて、つくりました。この鐘の音を広島から世界のすみずみまで、ひびきわたらせ、全人類のひとりひとりの心にしみわたらせることを願っております。
(昭和39年9月20日建之 広島悲願の会)

鐘の表面には「世界は一つ」を象徴する、国境のない世界地図が浮き彫りにされている。
撞座(つきざ)は、原水爆禁止の思いをこめて原子力マークにし、その反対側には、撞く人の己の心を写しだす鏡が入れられている。
鐘楼の周囲の池にはハスが植えられ、毎年、8月6日の平和記念日の頃になると美しい花を咲かせます。
被爆当時、ハスの葉で傷をおおい、火傷の痛みをしのいだという被爆者の霊を慰めたものだそうである。
環境省の、「残したい日本の100選」に1996(平成8)年選定された(平和記念資料館に展示され8月6日の平和記念式典で使用される鐘と「平和の時計塔」のチャイム音を加えた全体の音風景が対象)。

どんどん雨が本降り傾向へ・・・。デジカメがヤバい。早く「原爆ドーム」に行かないと・・・。
「平和記念公園」とは元安川を挟んで、対岸にあの「原爆ドーム」が有る(下の写真)。

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20数年前に来た時にも見た筈だけど・・・う~~ん、記憶がごく僅か。

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今日はじっくりと見て、目に焼き付けておこう。雨が本降りになる前に・・・。

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元安川に架かる橋を渡って対岸へ。
原爆ドームの前に到着。この付近の道幅は狭いながら観光客が多いので、自転車は押し歩きしましょう。僕も勿論そうするよ。

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負の遺産ですか・・・。

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昭和20年8月6日午前8時13分、この約580mの上空でウラニウム爆弾が炸裂、一瞬にして市街は壊滅し、20万余の人命を奪った。
この建物は1915年(大正4年)に建てられた広島県産業奨励館だったが、原爆ドーム 原爆の投下により建物は一瞬にして大破し、天井から火を吹いて全焼。中にいた30人余りの人々は全員死亡したと伝えられている。爆風がほとんど真上から働いたため、壁の一部は倒壊を免れ、ドームの鉄枠とともに象徴的な姿をさらすことになった。その形から、占領が明けた頃には「原爆ドーム」という言葉が広く使われ始めた。
ドーム部分が全壊しなかった理由として、

  • 衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと。
    窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜ける(ドーム内部の空気圧が外気より高くならない)条件が整ったこと。
  • ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったこと。銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったこと。

などが挙げられている。
結果、ドーム部分は全体が押し潰される程の衝撃を受けなかったため、爆心地付近では数少ない被爆建造物(被爆建物)として残った。

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ドームの保存については、「原爆による惨禍の証人として保存する」という意見と、「危険物であり、被爆の惨事を思い出したくないので取り壊す」という意見が対立したが、1966年(昭和41年)に永久保存を決定。広く募金を呼びかけ、これまで3度の保存工事が行われた。
世界遺産への登録 人類史上最初の原子爆弾による被爆の惨禍を伝える歴史の証人として、また、核兵器廃絶と恒久平和を求める誓いのシンボルとして1996年(平成8年)12月「世界遺産条約」に基づきユネスコの世界遺産一覧表に登録された。

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さて、かつて「広島産業奨励館」だったということであったが、それは・・・。

『広島県産業奨励館』

1915年(大正4年)4月5日に竣工、同年8月5日に開館した。
設計はチェコ人の建築家ヤン・レッツェル。レンガ(一部鉄筋コンクリート)モルタル仕上げ、玄関部分は石造りで地上3階一部5階建て、地下1階のセセッション様式と呼ばれる建築物で曲面を多用しているのが特徴。 レッツェルの起用は、当時の寺田祐之県知事によるものであり、寺田は前職の宮城県知事時代、レッツェルの設計した松島パークホテルを見て彼に物産陳列館の設計を任せることを決めたといわれる。さらに同じ頃レッツェルは宮島ホテル(1917年竣工。現存せず)の設計も手がけている。

広島県物産陳列館は、広島県物産品の販売促進を図る拠点として造られた広島県物産陳列館は、県下の物産品の展示・販売のほか、博物館・美術館としての役割も担っていた。その後、広島県立商品陳列所、広島県産業奨励館と改称し、戦争が激しくなった1944年(昭和19年)3月には産業奨励館としての業務が廃止され、内務省中国四国土木出張所や広島県地方木材・日本木材広島支社などの統制会社の事務所として使用されていた。

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見事な建物であったことが想像されますな。

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内部の様子がすこし垣間見える(下の写真)。

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ぐるりと周りを一周出来るので、折角だから全部を見て回りましょう。

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やはり生で見たほうが伝わるね。

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まだ見たことの無い方は行って見てください。

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建物の内部の様子を垣間見る(下の写真)。

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360度、全ての角度から見て回る・・・。

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らせん階段が残っている(下の写真)。

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原爆ドームの周りを一周後、ドームのすぐ傍に有る「動員学徒慰霊塔」へ(下の写真)。

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『動員学徒慰霊塔』
建立年月日:1967年(昭和42年)7月15日
建立者:広島県動員学徒犠牲者の会
設計者:村田相互設計,円鍔勝三(えんつばかつぞう)(陶板)
形状:
平和の女神像と8羽のハトを配した高さ12mの有田焼の陶板仕上げで、末広がりの5層の塔の中心柱に慰霊の灯明がついている。塔の左右にある4枚のレリーフは「食糧増産作業」「女子生徒の縫製作業」「工場における作業状況」「広島の灯ろう流し」を表し、その裏に全国戦没学徒出身校352校の校名と動員学徒悼歌“ほのお果てては”が記されている。
建立の目的:第二次世界大戦中、労働力の不足を補うため、勤労奉仕に動員され戦禍にたおれた学徒と、原爆の犠牲者を含めた約1万人の学徒の霊を慰めるため。
碑文:

「第二次世界大戦中増産協力等いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は、全国にわたり三百数十万人。あたら青春の光輝と、学究の本分を犠牲にしつつ挺身した者のうち、戦禍にたおれたものは一万有余人。その六千余人は原爆死を遂げた。この塔は明眸青雲を望み、将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく、祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと有志同胞の手によってうち建てた。」

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学徒動員について・・・
政府は労働力の不足を補うため、1944年(昭和19年)8月に学徒勤労令を発し、中学生以上の生徒は軍需工場等での勤労奉仕が強制された。また、11月には、空襲による延焼を防ぐため、民家などの建物を取り壊し防火地帯をつくる建物疎開作業にも、多くの生徒が動員された。広島市内でも被爆当日、市内で建物疎開作業を行っていた国民学校高等科以上の8,000人以上の生徒のうち、約6,300人が犠牲となった。その他に市内の各事業所に出ていた多くの学徒も犠牲者となった。

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建立の由来について・・・
政府は、原爆や空襲などで亡くなった動員学徒のうち、氏名・死亡日等の判明した者に限り靖国神社への合祀を認めた。
この塔は、それを受け、名簿作成運動を始めた遺族による募金によって建てられたものである。県外の出身学校名は、この建設運動の趣旨に賛同し、空襲などで亡くなった学生の名簿を送ってきた学校である。

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さて、雨がますます強くなってきた。「平和記念公園」内で見落としている所が有るし、資料館にもまだ入っていないのだが、でも「広島城」も「中央公園」も「縮景園」もその他色々寄りたいし・・・。資料館は以前入ったことが有るということで、とりあえず「平和記念公園」をあとにし、まだ行ったことの無い「広島城」のほうへ行って見ることにする。そのあとで雨が止んだらまた「平和記念公園」に戻ってきて、資料館にも入ってみよう。
元安川にかかる「相生橋」のほうへ(下の写真)。

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そのあと、「旧広島市民球場」の前に来たのだが・・・もう本降りに近くなった。球場の外周でちょっと雨宿りをするも、すぐに止む気配は全く無し。仕方無く球場から離れ、地下道(自転車通行可)を利用して少しでも濡れることを回避しつつ、「広島城」に近づいたが、何かイベント期間中らしく雨なのに結構な人混み!正式な駐輪場所も見つからないし、適当に(?)駐輪している自転車達はビショビショ。同じように置いたらビショビショになっちゃう。「広島城」以外の観光スポットの「○○美術館」とかもちょっと行ってみたが、駐輪場に屋根は無く、みんなビショビショ。・・・・なんかもうキレてしまい、帰りたくなって・・・帰ることにした。時刻はまだ10:00台なんだけど・・・(←早!!)。

雨の街中を走って、10:45頃にJR広島駅に到着。他人が見てひいてしまう程のビショビショ状態にはならなかったのでまだ良かった。髪の毛は帽子で、服はウィンドブレーカーのおかげでだいぶ助かった。これなら風邪をひくことも無いだろう。
濡れた自転車をポケットティッシュで軽く拭き、サッサと輪行袋にパッキング。モタモタやっていると逆に未練が強くなるからな・・・。

20101031ride_117s 新幹線のホームに上がる。暫く待って広島駅11:44の始発ののぞみ号に乗り込む。乗り込んだ時はまだ11:00ちょっと過ぎで、その後博多始発の新幹線を2本程やり過ごすために出発まで時間が有ったが、車両の最後部の座席を確実に確保出来るので(右の写真)、これを選んだ次第。もうここまで来たら急ぐ必要も無いし・・・。

広島駅を出発して12:00になったところで、新幹線に乗り込む前に駅で買っておいた穴子丼を食べる(下の写真)。穴子は広島の名産の一つだからね。駅弁でも旨いな~。

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新幹線は雨の山陽地方を走り抜け、定刻通り13:15に新大阪駅に到着。ここで下車。
大阪市内も雨が降っている。その後幾つか乗り継いで最寄りの駅へ。
最寄駅に着いて自転車を組み立て、僅かな距離ながら雨の中を走り、無事に帰宅。時刻は13:45。
・・・早い・・・早過ぎる帰宅だ。朝出発した時にはこんなことになるとは思っていなかったよ・・・orz

そんな輪行ポタだったが・・・・も~何しに行ったんだか・・・。
結局「比治山公園」と「平和記念公園」と「原爆ドーム」のためだけに、なかなかの電車賃と往復4時間以上をかけて輪行し、2時間位しか滞在せず・・・という、何とも残念かつ不完全燃焼な輪行ポタになってしまった。
・・・まぁこういうことも有るか。今度また続きをやり直そう。そしてその時は「○島」もセットだな。「比治山公園と平和記念公園と原爆ドームのためだけに・・・」云々とさっき書いたが、今回はそれらを見ただけで納得しましょう・・・。
 

コース概略/自宅→○○線・△△駅~(輪行)~□□駅・▽▽線・◇◇駅~(輪行)~新大阪駅・JR山陽新幹線~(輪行)~広島駅→駅前大橋→猿候川右岸→県道37→比治山神社→県道37→比治山公園→県道37→鶴見橋→平和大通→平和記念公園→原爆ドーム→国道54→(広島城をスルー)→合同庁舎前→駅西高架橋→JR山陽新幹線・広島駅~(輪行)~新大阪駅・▽▽線~(輪行)~◇◇駅・○○線・□□駅~(輪行)~△△駅→自宅

走行距離/15.92km
走行時間/1hr28min
平均速度/10.82km/hr
最高速度/35.60km/hr
Small Bike積算距離/1566km
全Bike積算距離/19773km

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Comments

お天気は残念でしたね。
親戚が岡山にいるので、そこまではよく行くのですが、実は広島市内にはまだ行ったことありません。

今月も新米を頂きに車を走らせるので、足を延ばして広島行こうかな…。
その場所でしか感じられない何かがきっとあるでしょうしね。

« 投稿: angiras6  2010年11月 7日 (日) 21時52分

angiras6さん>
“広島県”ですと、尾道とか福山とか宮島とか観光で行くでしょうが、案外と広島市内は行かないかも知れませんね。

その場所でしか感じられない何かがきっとあるでしょうしね。>
平和記念公園とか原爆ドームとか資料館が、そうかも知れません。

« 投稿: Katze  2010年11月 8日 (月) 16時58分

戦争や平和について色々考えながら拝見させて戴きました。
日本人なら一度は訪れたい場所かもしれませんね。
特に原爆ドームは戦争の恐ろしさ、凄まじさが伝わってきます。
写真からもそうなので、実物を見たらもっと衝撃を受けるかも。

« 投稿: MariRose  2010年11月16日 (火) 19時54分

MariRoseさん>
そうですね。一度は訪れてみたほうが良いでしょうね。原爆ドームに加えて、あとは資料館かな~と・・・。資料館を今回はスルーしましたが、そこも入ってみたほうが良いと思います。悲惨さが一番伝わってくると思います。

« 投稿: Katze  2010年11月21日 (日) 20時58分

 






 

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