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2010年11月28日 (日)

松阪城跡~吹井ノ浦ポタリング 2010.11.03

年月日/2010年11月3日

バイク/GLOBE (SPECIALIZED) Small Bike

目的/松阪城跡とその城下町周辺のポタリング、並びに櫛田川沿いと吹井ノ浦の伊勢湾沿いのサイクリングを楽しむ。

ポイント/往復輪行。

内容/
今回も小径車でノンビリ・ポタリングをしようと、選んだ場所は三重県松阪市。
松阪市は広く、市街部から自然いっぱいの山間部までヴァリエーションに富んでいるが、今回は松阪城跡を中心に松阪駅周辺の観光スポットを幾つかと、街から少し離れた伊勢湾岸の吹井ノ浦を巡る予定。巡った場所とだいたいのコースを初めに載せてしまうと、下の地図のような感じ。ちなみに松阪の観光情報はこのサイトが一番→「松阪観光情報」。ここで事前に多くの情報を仕入れておいた。

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松阪市街地から吹井ノ浦までは主に「旧参宮街道」と櫛田川沿いの道を使う。吹井ノ浦近くとゴールの近鉄線の駅との間は主に松阪伊勢自転車道を使う感じ。

で、大阪~松阪間は当然ながら輪行。

20101103ride_1s 自宅を5:05に出発。
最寄りの駅まで走り、駅で自転車を輪行袋にパッキング。折り畳み小径車だから5分も有れば充分。余裕で列車に乗り込み、幾つかの路線を乗り継いで近鉄大阪線の上本町駅に5:51に到着。
6:15の快速急行鳥羽行に乗り込み、松阪駅を目指す(右の写真)。この列車は2+2配列の座席の車両とロングシートの車両とが繋がっている。GLOBEを入れた輪行袋は、ドア近くの2+2配列の座席の後ろに出来るスペースに丁度(ギリギリに近い)入る(ちなみにロードバイクやMTBの場合は無理だ)。そういうわけで、2+2配列の座席が有り、比較的空いている先頭車両に乗り込んだ(ちなみに、この時刻のこの列車は全区間を通じて先頭車両が一番空いているよ)。

松阪駅には8:02に到着。
松阪駅は近鉄線とJR線の駅舎が連結していて、南口方面がJR管轄、北口方面が近鉄管轄。どちらの路線に乗ろうとも、どちらの出入り口の自動改札機も通れる(切符の種類や枚数によっては無理な場合も有る)。最初に松阪城跡に行くつもりなので、南口のJR側から出る。
駅舎のすぐ外で自転車を組み立て、松阪駅を出発(下の写真)。時刻は8:15。
ほらね、南口だからJRの看板が掲げられているでしょ(下の写真)。近鉄のものは見当たらない。

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駅を出発して松阪城跡に向かう。
駅前の市街地なので、休日の朝とはいえ、それなりに人やクルマが多いんだろうな~とは思っていたが、予想以上に多いな・・・、と思っていたら、理由が分かった。どうやら今日は駅周辺の市街地、商店街で何か大きなイベントが有るらしい。歩道ではたくさんの露店が準備中。車道ではその露店関係のクルマが駐車していたり移動していたり、そこへ普通に単に通りがかるクルマが有ったり、突然横断する人がいたりで、かなりの混雑。駅前の商店街から抜けるのに、ちょっとストレス。ところでこれは(後日調べたところによると)「氏郷まつり」という大きなイベントらしい。“氏郷”とは、これから行こうとする「松阪城」を建てた戦国大名・蒲生氏郷のことだな。
そんな「氏郷まつり」にも関わらず、駅から離れて松阪城跡に近づくにつれて道は空いてくるし、クルマも人も少なくなってきた。露店は全く無い。
“松阪城跡”はここの代表的観光スポットなので、案内板や道標は道の途中にちょくちょく有る。地図を見るのが面倒なので、それらを頼りに走っていると、程無くして向こうのT字路(ト字路やY字路といったほうが良いかも知れない変形タイプのT字路)の正面に石垣が見えてくる(下の写真)。

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T字路の左が登り坂、右がフラットな一般道(上の写真の右下)で、城跡への入口は突き当りのやや左にある。ここが「表門」だ(上の写真の左下と下の写真)。
『松阪城跡』に到着。時刻は8:30頃。

『松阪城跡(松阪公園)』
道路から城の敷地内に入ると、いきなりの急坂(下の写真)。

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別に峠越えでもないし、頑張る必要も無いので、押し歩き~~。

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石垣が見事だ。

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『松阪城跡』
1584年(天正12年)豊臣秀吉に松ガ島城に封ぜられた蒲生氏郷は、1588年(天正16年)四五百森に松阪城を築いて移った。この時、松ガ島城下の蔵方(金融業者)を移住させ、氏郷の郷里近江日野から商人を招き、伊勢大湊から海運業者を呼び寄せ、参宮街道をつけかえて城下町を造った。2年後に氏郷は会津若松へ移封され、服部一忠、吉田重勝・重恒が城主となった。1619年(元和5年)に徳川頼宣の領地となってからは紀州藩城代が置かれ、伊勢18万石を統括した。3層の天守閣は1647年(正保4年)の台風で倒壊、他の建物は明治になって壊された。
現在は、豪壮な石垣や石段が残されているのみであるが、市街や紀伊の山並みの展望が良い城跡は、春は桜と藤、秋は紅葉の美しさで知られ、「松阪公園」として開放されている。
敷地内には、「松阪市立歴史民俗資料館」「本居宣長記念館」「鈴屋(本居宣長の旧宅)」が有る。
(松阪城に詳しいサイトはここ→「お城めぐり 松阪城跡」「Wikipedia」)

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T字路になっているが、先ずは左へ行ってみることに・・・。
コンクリート舗装は無くなり、土の路面になる。美しい石垣の間を登っていく。

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登って出た所は広い敷地になっている(下の写真)。

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南東の方角の角に一段高い所が有る(下の写真)。

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「月見櫓跡」だ。

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「梶井基次郎文学碑」が有る。彼の作品「城のある町にて」のものだ。

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梶井 基次郎(かじい もとじろう,1901年2月17日 - 1932年3月24日)は、近代日本文学の小説家。明治34年2月17日、大阪市西区土佐堀通五丁目に生まれる。
大正13年、東京帝大文学部英文科に入学し、翌年、中谷孝雄、外村繁らと同人雑誌「青空」を創刊。「檸檬」(大正14)、「城のある町にて」(大正14)など、深い自己凝視と、高い詩的完成度を持った作品を発表する。
大正15年より、病気療養のため伊豆湯ヶ島温泉に滞在。川端康成をはじめ、多くの文学者の友人に恵まれ、「冬の蝿」(昭和3)など、この地での体験はその後の多くの小説に活かされることになる。
昭和3年に上京するも病状が悪化し、同年に大阪の両親のもとへ帰郷。
昭和6年、小説集「檸檬」を刊行。翌年の1月には商業誌に「のんきな患者」を発表し、本格的な文壇デビューを飾るものの、3月24日、肺結核により死去。
享年31歳。
作品は「檸檬」「城のある町にて」「泥濘」「路上」「過古」「雪後」「ある心の風景」「Kの昇天」「冬の日」「櫻の樹の下には」「器樂的幻覺」「蒼穹」「筧の話」「冬の蠅」「ある崖上の感情」「愛撫」「闇の繪巻」「交尾」「のんきな患者」等

文学碑は伊豆にも、大阪の靱公園にも有るらしい。
さて、ここからの展望が良い(下の写真)。

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東の方角が一望だ。

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松阪市街地が広がっている。

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↓クリックすると大きな画面で見れます。

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城下が一望ですね。

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櫓だし・・・。

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あ・・・。

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伊勢湾も見える(下の写真)。水平線がくっきり。

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松の木の並ぶ「月見櫓跡」から、「本丸跡」へ向かいましょう(下の写真)。

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急な石段が有る(下の写真)。

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自転車が有るので、ここから登らずにその隣の緩い階段で登っていく。
更に広い所に出る(下の写真)。クルマが駐車している。ここまで入って来れるんだ~。
ここが「本丸跡」のようだ。

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「本丸跡」と石柱が立っている(下の写真)。後のビニールカバーがちょっと残念orz。

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「金の間櫓跡」というのが有り、そこに「松阪開府の碑」が立っていて、何かイベントが・・・(下の写真)と思ったら、これもどうやら今日の「氏郷まつり」に関係して、その最初の「碑前祭」というものらしい。

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さて、天守閣跡へ・・・。下の写真の一段高い所に登ると・・・。

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「天守閣跡」の石柱(下の写真)。

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・・・なるほど。

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広さは・・・うまく伝えられません。

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実際に行って見てくださいまし~~。

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本丸を囲むように一段高い石塁が続いている(下の写真)。
城には全く無知なので、城の配置や用語とか全然分かりません┐(´д`)┌(ちょっとだけ調べたけどね・・・“縄張り”とか“曲輪”とか・・・(^_^;))好きな人には色々興味深い所が有るんだろうな。

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本丸跡を取り囲んでいる石塁からの眺めが良い(下の写真)。

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自転車を押しながら、ぐるりと回ってみますか。

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南東の方角の眺め(下の写真)。度会町方面の山々まで遠くに見えるな。

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自転車を押しながら進む。

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乗りませんよ。だって落ちたらタダでは済まないし・・・(下の写真)。

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下を覗き込む(下の写真)。・・・ダメでしょ、この高さは・・・。
怖え~~。なんかおしりがムズムズする。

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まぁ~、そもそもこういう所を自転車に乗って走って喜んでいたらバカ丸出し。「場をわきまえろ」ってとこでしょ?押し歩きします。

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景色を眺めながらね・・・。

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景色に見とれて足を踏み外さないように・・・。

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自転車も落とさないように(壊れる)。

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南の方角(下の写真)。

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まだ周回は続く。

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ノンビリと回りましょう。

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また眺めの良い所に出た。

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「松阪の八山」というものが有るらしい。「阿坂城跡(313m)」「観音岳(606m)」「堀坂岳(757m)」「伊勢山上(380m)」「烏岳(545m)」「白猪山(820m)」「局ヶ岳(1029m)」「高見山(1248m)」。西~南西の方角に山々が見える(下の写真)。その八山が見えているかどうか分からないが、いずれにしても、方角からして布引山地の山並みだな。

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結構近くに見えるね。

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「角櫓跡」から見える、西に広がる街並み(下の写真)。

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近くは松阪市内。ずっと遠くは津市だろうな(・・・たぶん)。

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お・・・

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教会のようだが・・・実は教会ではなくて“教会風”の何かの建物かもしれない(後日調べてみたがネット上では分からず・・・)。いずれにしても蒲生氏郷はキリシタン大名だったし、松阪はキリスト教と縁が有る場所なんだな。

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いい感じの小路のような所を進む。

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落ちたらOUTだけど(^_^;)
丁度人が立っているので、高さをイメージしてみてくださいな(下の写真)。

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「松阪城の石垣」について
松阪城の魅力に石垣がある。名古屋工業大学教授・内藤昌博士によると「素晴らしい石垣。安土城同様の形式だが、それを上回る強固なもので美観という点でも優れている。蒲生氏郷の美意識の高さを感じられる」とし、近世の先駆けとなる名城としてあげられる。
安土城の築城に加わった蒲生氏郷だが、松阪城にもこの時の石垣作りが取り入れられている。石垣のつみ方は「野面積み」を主体に、隅の部分は「切り込みはぎ」「算木積み」という工法が使われている。これらの工法は「穴太衆」と呼ばれる近江国の石工集団が、安土城で今までの日本には無かった新しい築城方法を発案した。蒲生氏郷は自分の出身地でもある穴太衆を中心に地元の農民をかり出し石垣をくみ上げていった。石材の多くは近くの河原から集められた石が使われたが、天守台などには古墳に埋葬された石棺の蓋まで使用された。
1988年(昭和63年)~2003年(平成15年)の16年間、総事業費11億円、総面積4580m²に及ぶ「平成の松坂城石垣修復」が実施された。部分的な石垣の修復はされていたが全面的な修復は1700年以来といわれている。この修復で二ノ丸からは蒲生氏郷の時とは違うノミ跡が発見されたり、三ノ丸の野面積みも紀州藩になってからのものなど数多い発見があった。
(「Wikipedia」より)

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「藤見櫓跡」(下の写真)
櫓の土台の石が見えますな。ここに柱を乗せたのでしょう。

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「鐘の櫓跡」(下の写真)

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すぐ目の前に「歴史民俗資料館」が見える(下の写真)。あとで行こう。

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「鐘の櫓跡」の下の道(下の写真)。

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敵が侵入してきても、上から攻撃できるな。石垣を登っては来れないし。
それに登り坂だから歩みも遅くなるし(下の写真)。

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櫓跡が有る石塁から降りる。勿論石段でね。
本丸跡から回り込んで、先程の「鐘の櫓跡」の下の道へ降りてみる(下の写真)。

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石垣に穴が空いている。

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ここからも攻撃出来そう。人は通り抜けられない。

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さて、「二の丸跡」方面に向かう途中、右手に石段と門が・・・(下の写真)。

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『本居宣長旧宅』
折角だから入りましょう。ただし自転車は門の前に駐輪。

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門の中には綺麗な庭。

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緑がいっぱいだ。

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「隠居丸跡」(下の写真)

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そこには井戸の跡が・・・(下の写真)。

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木漏れ日の注ぐ庭を抜けていくと、そこに本居宣長の旧宅「鈴屋」が有る(下の写真)。

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ここは入場料を払う必要が有るが、それは「鈴屋」の前を抜けて「狸門跡」を抜けたすぐそこに有る「本居宣長記念館」(下の写真)で求められる。同時にこの記念館の入館券でもある。まずは入館券を買って、記念館から先に見て回ろう。

『本居宣長記念館』
(公式HP→「本居宣長記念館」)

1970年(昭和45年)開館。江戸時代中期の国学者本居宣長とその一族、門人の資料を収蔵保管。その一部を紹介している。

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展示室は二階に有る(下の写真)。

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「本居宣長(もとおり のりなが)」
1730年6月21日(享保15年5月7日)~1801年11月5日(享和元年9月29日)
18世紀最大の日本古典研究家。
伊勢国松坂(三重県松阪市)の人。
木綿商の家に生まれるが、母の薦めで医者の道を目指す。23歳から京都にて医学(漢方)を学び、28歳で松阪に戻って医者を開業する。
34歳の時に、賀茂真淵と出会い弟子入り、古事記の研究を決意。医業の傍ら『源氏物語』などことばや日本古典を講義し、現存する日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年をかけて『古事記伝』44巻を執筆する。
主著は他に『源氏物語玉の小櫛』、『玉勝間』、『うひ山ふみ』、『秘本玉くしげ』、『菅笠日記』など。
63歳の時に紀州藩に仕官し、その前後より名古屋や京都、和歌山藩主の許を廻り研究成果の講釈を続け、国学を広めた。
72歳で没。
鈴と山桜をこよなく愛し、書斎を「鈴屋」と呼び、また山室山にある奥墓には山桜が植えられている。
(公式HP「本居宣長記念館」より)

詳しいサイトはここ→「宣長ワールド」。展示物の詳しい解説も載っている。

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折角だから、少しだけここでも紹介しておこう。

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「古事記伝終業慶賀の詠」 (上の写真)

『古事記伝』44巻を書き終えたのは、1798年(寛政10年)6月13日(新暦7月26日)。賀茂真淵と新上屋で会して『古事記』研究の志を打ち明けてから36年目、『古事記』校合という基礎作業から数えても35年の歳月を費やした、文字通り畢生の大著である。
命ある内に全巻終業できたことを宣長は喜び、神への感謝を新たにした。6月17日の荒木田久老宛書簡で

「私古事記伝も、当月十三日全部四十四巻卒業、草稿本書立申候、明和四年より書はじめ三十二年にして終申候」と喜びを伝える。

九月十三夜、宣長は観月会を開き全巻終業の祝賀歌会を開催した。下の写真はその時の宣長の詠。

「寛政十年九月十三夜古事記伝かき終へぬるよろこびの円居して披書視古といふことを題にて人々とゝもによめる
古事の記をらよめばいにしへのてぶりことゝひきゝみるごとし」

歌の意味は『玉鉾百首』で
「上つ代のかたちよく見よいそのかみ古事ぶみはまそみのかがみ」
と詠んだのと同じ『古事記』(コジキ・フルコトブミ)礼賛歌。「をら」は、「等(ラ)はかるく助辞の如心得べし」(『万葉考』)。

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「うひ山ぶみ」(上の写真)

「詮ずるところ学問は、ただ年月長く倦ずおこらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也」
宣長(六十九歳)著。『古事記伝』を書き終えた宣長が、門人のもとめにより書いた勉強法。国学という学問について丁寧に説く。その一言一言には実体験という裏付けが有った。
この中で宣長は、学問というものは、ただ年月飽きることなく怠ることなく努力することが大事で、方法はあまり問題ではないと言う。
この『うひ(い)山ぶみ』、また「倦まずおこたらず励み勤む」と言う言葉には、宣長の人生が投影されている。

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「嶺松院歌碑」(上の写真)

嶺松院は松坂新町、樹敬寺塔頭の一つ。現存せず。もと72坪。享保8年再建。小津本家代々の手次寺。
「嶺松院歌会」がここで開かれた。同会の初会は1723年小津長正(清水谷実業門人・小津本家)により始められたが長正の死去で中断。1731年4月25日再開。その後会員や式日の変化があるが、再開以後だけでも78年間継続した。再開のメンバー10人の内、宣長の縁戚者が4名確認できる。宣長が加入したのは、京都から帰郷した直後1758年2月11日。以後、没するまで40年に渡り宣長の松阪での活動の拠点となる。
今、山門を入ったすぐ左手、塔頭の跡には

しめやかにけふ春雨のふる言をかたらん嶺の松かけの庵
                                 宣長

の歌碑が建てられる。また、碑の下の石には「嶺松院あと」の文字がある。
院は明治の大火で消失。今、その跡には松の木が植えられる。また樹敬寺には「嶺松院」の名前を刻した鐘鉢が残される。

次いで、旧宅鈴屋に有った宣長愛用の品など・・・。

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「柱掛け鈴」(上の写真の右手の長い板状のもの)。紐の結び目に鈴が付いている。

「柱掛け鈴」は、36個の小鈴を赤い紐でつないで柱などに掛けて、気分転換に鳴らす。
もう少し詳しく言うと、真鍮製渡金の鈴、大12個、小24個を用意し、大2個小4個を一組に糸で縛り、それを赤い紐(長さ2m両端房付き二つ折り)の、6つ作った揚巻結びの上に縛る。

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硯や筆(下の写真)。

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文机ですな(上の写真)。

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いろいろな鈴が有りますな(下の写真)。

53歳の時に書斎を増築し、柱掛鈴を床の間の脇に掛けた。その鈴に因み、書斎の名前を「鈴屋」と名付けた。
宣長はその鈴の音色が好きだった。
先生は鈴が好きだと聞いたお弟子さんは、鈴をおみやげに持ってくる人もいた。

(下の写真の上段左から)「鬼面鈴」「養老鈴」「駅鈴」(下段の左から)「茄子鈴」「鉄鈴」

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例として・・・上の写真の右上は「駅鈴」

「駅鈴」とは、律令制で駅馬を利用する時に携行を必要とする鈴。中央官庁と地方国衙に備えてあって、使者の位に応じた剋数によって人馬を調達した。使者はこれを鳴らしながら往来した。
松阪と駅鈴の関係は、実は大変古い。『延喜式』巻4「伊勢大神宮」に
「凡そ駅使大神宮の堺に入らば、飯高郡の下樋小川に到りて鈴の声を止めよ」
とある。
松阪郊外に位置する「下樋小川」から神宮領になるので、駅鈴の使用は出来なくなる。その地が「鈴止村」と呼ばれるようになった。「下樋小川(シタヒオガワ)」の場所については、『玉勝間』巻3「下樋小川」で、ある人の説として、岸江村と朝田村の間、東岸江村を離れてすこし東に鈴止の森があるという紹介がある。

松阪と鈴は縁が深いようだ。三重県松阪市の入口、松阪インター、松阪駅には「鈴」がある。徳和駅にも松阪万古製駅鈴型看板が掲げられている。町にはベルタウン、カリヨンプラザ、鈴の森。道には踏み絵のような鈴の絵があり、公園には本家本元・宣長の「鈴屋」とその鈴が鎮座する。おみやげも鈴尽くしとのこと。

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さて、医者としての宣長の遺品も数々・・・(下の写真)。

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「薬箱」(上の写真)

二十八歳で京都から帰った宣長は、早速、町医者を開業する。この薬箱は調剤用の薬を入れていたもので、結構重い。覆いには宣長の字で「久須里婆古(くすりばこ)」と記される。

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「匙」(上の写真)。薬の調合に使ったんですな。
「済世録」(下の写真の上段)

患者と投薬記録、及び薬代などに関する帳簿。カルテも兼ねる。

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「薬の広告」(上の写真の下段)

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「本草摘要」(上の写真)

馬瀬道三著。宣長手沢本。1697年(元禄10年)刊、裏表紙に「演古堂蔵書、医者板行目録」がある。
薬物145種の効用や特徴を記している。宣長も薬草を購入したりする時に重宝していたのか、薬草の産地など、書き入れがある。
宣長の頃の医学は、蘭学も入ってきていたが、主流は漢方で、宣長も京都で漢方医学を修めている。

次いで「物まなび」のコーナーへ・・・。

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「本末の歌」(上の写真)

宣長の長歌。「本と末」(もとすえ)、あるいは必要と不必要は、宣長の思想や価値判断の中でも重要な概念の一つ。例えば、何故このことが問題になるのかという目的を明確にし、その中でこれは大事、これはそれほど重要ではないというように分け本末転倒することがない。そのような考えを詠む。
学問でも日常生活でも、この判断が適切に行われたことが、宣長の成功の一因だった。

自分の仕事がら(内緒)、教えられた気分になるな~。
さて次は・・・。

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「田中道麿像」(上の写真)

田中道麿
1724年(享保9年)~1784年(天明4年)10月4日。61歳。美濃国多芸郡榛木村(岐阜県養老郡広幡村大字飯木字居村)に生まれた。家は農業を営んだ。
子どもの頃から読書が好きで、読む本を求めて大垣俵町の本屋平流軒に奉公したと言う伝説もある。また、故郷を出た道麿は、駕籠を担ぐなどして生計を立てていたとも言う。
近江国彦根(滋賀県彦根市)の大菅中養父(オオスガ・ナカヤブ)という賀茂真淵の門人と知り合い日本古典を学ぶ。その後、1759年(宝暦9年)、道麿36歳頃には既に尾張国に住んでいたことがわかっている。安永の始め頃から桜天神で和歌や国学の塾を開き(『新修名古屋市史』)、門人も出来た。古典の中でも専ら『万葉集』などを研究した。
1777年(安永6年)7月、松坂を来訪。1780年(安永9年)5月にも再訪。この時門人となる。
『玉勝間』のなかで宣長は、道麿は、自分より年長だったが、入門してきて、二度三度は松坂まで勉強しにやってきたし、普段は手紙で質疑応答を繰り返していたが、この人ももう亡くなった。だが、名古屋の日本古典の学問は、道麿の努力で始まったのである、とその努力と功績を讃える。
道麿像の筆者は不明だが、賛は、道麿十七回忌の時の宣長の歌である。

懐旧 さそはれし時雨の雲の跡とほく年のふるにも袖はぬれけり  
                                    宣長

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「上田秋成像」(上の写真の左)(複製)

1734年(享保19年)6月25日~1809年(文化6年)6月27日。享年76歳。俗称、東作、後に余斎。号は、無腸公子、鶉居等。
大坂に生まれ、紙商・上田茂助に養われる。5歳の時に痘瘡にかかるり、加島稲荷の加護で危うく一命を取り留めるが、指に傷害が残る。のらものとして青春時代を送り、俳諧に遊んだり、浮世草子『諸道聞耳世間狙』、『世間妾形気』を執筆する。火災で家産をなくしてから一時は医者をする。また、賀茂真淵門人の加藤宇万伎(美樹)に師事して国学を学ぶ。宣長の著作を広くまた深く読むが、やがて『鉗狂人』を巡り論争となる。『呵刈葭』はその論争を宣長がまとめたもの。
同じように商家に育ち、子供の時に神の恩を受け、賀茂真淵門に学びながら激しく論争した2人だが、これは国学というものの両極を示すのかもしれない。ある意味では。読本『雨月物語』、『春雨物語』、『よしやあしや』、『冠辞考続貂』、家集『藤簍冊子』等。性は狷介峭直、世事に拘らず、名利を事とせず、嘗て謂う、人皆縦に行けば、余独り横に行くこと蟹の如し。故に無腸という。蓋しこれは蟹の異名である。住居も定まらず、常に転転とする。故に鶉居と号す。煎茶を好み、酒、煙草は喜ばず。他の文人、学者を見ること蛇蝎のようであった。『胆大小心録』はそれを文章化したもので、周囲の凡てを批判する、悪口三昧。文化4年に草稿類を井戸に捨てた。墓は、京都西福寺。蟹の台座に乗る。

宣長のライバル的存在か・・・?

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「本居宣長懐紙」(上の写真)

寛政元年3月21日、宣長名古屋行きの途中、佐屋川にて詠んだ歌。万葉振り。筆跡も歌に良く沿う。

尾張の国に物すとてさや川を船よりのぼる時によめる

みはかしの佐夜の河しりこきためは桑名も見えず国遠そきぬ

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「本居宣長六十一歳自画自賛像」(上の写真)(複製)

鈴屋衣を着て端座する姿を描く。宣長は44歳と61歳の2回、自画像を描き、また画家が写生した像も有るが、中でも特に有名なのがこの像で、長女・飛騨も、父の容貌に一番よく似ていると証言している。
賛は、

これは宣長六十一寛政の二とせといふ年の秋は八月に手づからうつしたるおのがゝたなり 筆のついでに

しき嶋の やまとごゝろを 人とはば 朝日にゝほふ 山ざくら花

上の写真の様な像が宣長の像としては定番だと思われる。大抵黒っぽい亜鈴屋衣を着ているものだ。その意味で下の写真の像は珍しい。

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「本居宣長七十二歳像」(上の写真)

鴨川井特(かもがわせいとく)画
普段着の宣長、宣長像がみな鈴屋衣という学者としてトレードマークとなっている着物を着るが、この像は古代紫の羽織姿でしかも手あぶりに手をかざすために体をひねっている。この絵には、隣の部屋からのぞいて描いたという伝承も残っている。日常生活の一コマを描いた作品。
1801年(享和元年)9月、宣長の亡くなる直前の姿。事情が有って人の目にも触れることなく200年近く経た。20年近く前に記念館で初めて公開し、幻の宣長像が出現と評判になった。

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「お流れ頂戴の土器」(上の写真)

1801年(享和元年)宣長72歳の正月に和歌山城内でお流れを頂戴した土器(かわらけ)。深草焼。宣長の書き付けが有る。

お流れ頂戴・・・目上から目下へ盃を捧げること。逆は「献杯」

そして、宣長の代名詞的な「古事記伝」(下の写真の左)、「源氏物語玉の小櫛」(下の写真の右)

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「古事記伝」(上の写真の左)

本居宣長が、35歳頃から35年をかけて69歳の時に書き終えた『古事記』の注釈書。第1巻では、『古事記』と言う本の価値を明らかにし、『日本書紀』等の本との比較、書名、諸本、研究史、また解読の基礎となる文体論、文字や訓法についてまず書き、宣長の古道(古代世界を貫く理念のようなもの)についての考え方を述べた「直毘霊」(ナオビノミタマ)。第2巻は序文の解釈と系図が載っている。第3巻から第44巻が本文とその訓読、注釈。書かれてから既に200年以上経過しているが、いまだに『古事記』研究書としての価値を失っていない。
全て漢字で書かれている。太安万侶の頃には、日本人はしゃべる言葉は持っていても、平仮名も片仮名もまだ発明していなかったため。
宣長が書いたものの中で最初に『古事記』の名前が出るのは、16歳の時に起筆した『経籍』という本の名前ばかり集めた本。その中に、「本朝三部ノ本書」として、「旧事紀クジキ【ワ雑十巻】、古事記コジキ【ワ雑三巻】、日本紀【ワ雑三十巻】』が出ている。
京都遊学中の宝暦6年7月(宣長27歳)に、『先代旧事本紀』と一緒に10匁2分で古事記を購入した。大山為起という神官の旧蔵本だったようで為起の書き入れもある。同月、『日本書紀』を読み終えているので、その流れで両書を買ったと思われる。
28歳で松坂に帰郷した宣長は、和歌の根源に遡るうちに、上代へと足を踏み入れていった。現代風に言えば、日本人とは何かという問題を考え始めたのである。この頃、賀茂真淵の『冠辞考』を借りて読んでいる。これは『万葉集』に出てくる「枕詞」(冠辞)の辞典であるが、古代研究の方法や理念にも触れている。一回読んだくらいでは理解もできなかったようだが、それでも繰り返し読んでいるうちにだんだん真淵の学問へ引きつけられていった。この本の中に、『古事記』と『日本書紀』の両方に出ていることは『古事記』を引用した。なぜなら『古事記』は真実の書だからだ、とある。「古事記、日本紀に同じく有ことをは古事記を挙つ、古事記はまことのふみ也、紀はから文に似たらんとつとめ書つれば、訓におきて人のおもひまどふ事もまじれば也、されど紀にてことわり明らけきをば紀を先とせり、旧事紀は後につくれるものにて、古意ならぬ事おほきふみなればとらず」(序附言)。宣長は、『日本書紀』や『先代旧事本紀』、『古事記』を比較しながら この「『古事記』は真実の本だ」という真淵の言葉を慎重に検証した。一つの成果が宝暦11年3月の「阿毎莵知弁」である。 この頃、宣長は「石上」(イソノカミ)と言う号を付け、署名に使ったり、『石上集』や『石上私淑言』など書名にも使用している。古代への憧憬の念の一つの現れであろう。また、一方では『万葉集』の講釈も開始している。そんな中で、徐々に『古事記』を読む必要性を痛感していったと思われる。
宣長自身は、30代前半、加茂真淵の教えを受け始めた頃から『古事記』を研究しようと思って、その事を真淵先生にも申し上げたと書いている(「あがたゐのうしの御さとし言」)。宝暦13年(1763年,宣長34歳)5月25日、宣長は江戸の国学者・賀茂真淵と対面(松坂の一夜)する。この頃には、すでに注釈を書こうという志があったと考えていいであろう。
【原文】
「宣長三十あまりなりしほど、縣居ノ大人のをしへをうけ給はりそめしころより、古事記の注釋を物せむのこゝろざし有て、そのことうしにもきこえけるに、さとし給へりしやうは」『玉勝間』巻2「あがたゐのうしの御さとし言」。
『古事記伝』の起稿時期は、真淵と会った翌宝暦14(明和元)年1月12日、子の日。嶺松院会で歌会始。この日、手沢本『古事記』(寛永版本)を度会延佳本で校合した。 もちろん、一日で出来るはずがないので、しばらく前から着手していたはずである。また、同月18日、年始開講で、『日本書紀』「神代紀」の講釈を始めている。定日は8の夜で、1766年(明和3年)3月10日に終業した。実は『古事記伝』を何年何月から書き始めたかは正確にはわかっていない。ただ、校合は注釈の基礎作業、準備だから、この年1月「『古事記伝』執筆に着手」と考えていいであろう。

宣長の『古事記』観 

『うひ山ふみ』の中で『古事記』について次のように語っている。

「道を知るためには第一に『古事記』である。神典は、『先代旧事本紀』、『古事記』、『日本書紀』を昔から、三部の書と言って、その中でも研究したり読んだりするのは『日本書紀』が中心で、次が『先代旧事本紀』、これは聖徳太子の御撰であるとして尊び、『古事記』はあまり重視されなかず、特にこの本に注目する人もいなかった。それが少し前からやっと『先代旧事本紀』は偽書だということになり、『古事記』が注目されるようになった。これはまったく私の先生・賀茂真淵によって学問が開けてきたおかげである。本当に『古事記』は、漢文の文飾無く、ただ、古えからの伝説のままにて、記述の仕方も昔のままで他に例が無く、上代のことを知る上でこれに勝る本はなく、また「神代」のことも『日本書紀』より詳しくたくさん書かれているので、「道を知る」と言う目的からは第一の古典だ。古学を学ぼうとする者が、最も尊み、学ぶのは本書でなければならない。そのために私は壮年より、数十年の間、心力を尽くして、『古事記伝』44巻を執筆し、古学の道しるべとしてきた。『古事記』は、古伝説のままを記述した本なのに、文章が漢文のようではないかと思われるかもしれないが、奈良時代までは仮名が無く、文章は漢文で書いていたためである。そもそも文字や本は、もともとは中国から伝わってきたもので、日本に伝来しても使用法はむこうのままで書き始めた。ひらがなやカタカナが出来たのは平安時代以降だ。好きで漢文で書いたのではない。これしか方法がなかったのだ」

肝心の古事記伝のアップの写真はぼやけてしまっていたので載せませ~ん(^_^;)
で・・・。
「源氏物語玉の小櫛」(上の写真の右)

本居宣長著。9巻9冊。宣長が『源氏物語』を最初に読んだのは、今井田時代、つまり19歳から21歳だとされている。29歳に始まった松坂での講釈も約40年に及ぶ。その宣長の源氏研究の集大成である。既に1763年(宝暦13年)、『紫文要領』で源氏論を展開した宣長は、それに補筆し本書を執筆しようと企図したが、『古事記伝』などで多忙のために断念していた。それが、浜田藩主松平康定の懇望により再開、完成した(藤井高尚の序文)。1796年(寛政8年)成稿し、寛政11年刊行。巻1、2は総論(『紫文要領』に加筆)。3は年立て論。4は本文考勘。5から主要語彙の注釈。
宣長は、「物語」の正しい理解が、『源氏物語』の正しい理解につながると考え、「蛍巻」に書かれた光源氏と玉鬘二人の「物語」論を精密に分析する。そして「此段のこゝろ明らかならざれば、源氏物語一部のむね、あきらかならず」という。では、この『源氏物語』の根底にあるのは何か。宣長は「物のあはれ」だという。「此物語は、よの中の物のあはれのかぎりを、書きあつめて、よむ人を感ぜしめむと作れる物」であり、そこに儒仏の倫理観を持ち込んでも意味がないことを主張する。
 注釈の態度は、一語一句についてその語感や文脈を精確に読解しようとする。
本書により、『源氏物語』が、それまでの好色の戒め説や、仏典との関わりから解き放たれ、物語として読むことが出来るようになった意義は大きい。これ以後の源氏研究を「新注」と言い、それ以前と分ける。

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「松の落葉」(上の写真)

宣長のメモ帳。

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「菅笠日記」(上の写真)

本居宣長が43歳の時、1772年(明和9年)3月5日から14日まで10日間、吉野、飛鳥を旅した時の日記。上下2巻。
大和国(奈良県)吉野山の花見を兼ね、吉野水分神社に参詣し、帰路、飛鳥周辺の史蹟を探索、伊勢本街道を通 り、美杉を経て松坂に帰郷した。同行者は、友人・小泉見庵、門人・稲懸棟隆・茂穂親子、戒言(来迎寺の僧)、中里常雄の5名と荷物持ち。学問的な成果 も多く、楽しい旅であった。またこの日記は文章、記述、構成も優れ、その後、吉野や飛鳥を巡る人々のガイドブックとしてもよく読まれた。

宣長のものではないようだが・・・(下の写真)。

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「彗星図」(オーロラの図)(上の写真)

1770年(明和7年)7月28日夜、空にあらわれた。宣長も日記に詳しく書いているけれども、こちらは図解。

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「遺言書」(上の写真)(レプリカ)

宣長71歳での筆。長男・春庭と次男・小西春村宛。
内容は、忌日の定め方から、葬儀の段取り、納棺などから始まり、山室山の奥墓(おくつき)、その上に植える山桜、樹敬寺墓、墓参の仕方、影前会にまで及ぶ。
70歳を過ぎても健康で、講釈や執筆、医業と日々多忙であったが、一つの契機と考えたのであろう。執筆より1年2か月後に宣長は72歳で亡くなる。

他にもまだまだ沢山の物が展示されていたが、全部ここに載せるのはとてもじゃないけどたいへんなので、この位で・・・。
展示室の外には「鈴屋」に有った本居家の品々(下の写真)。

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下の写真の上段は化粧道具、2段目左は香合(茶道で練り香を入れる物)、2段目は菓子器。・・・あ~、今、菓子器でお菓子を出す家って少ないかも。袋をポ~~ン・・・(^_^;)

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上の写真、3段目左は「鈴屋盆」、その右は「なます向付」(懐石料理の時に使う皿)、最下段は「角皿」。お寿司用ですな。
そういうわけで、見る物がたくさん。本居宣長って学校の歴史の教科書に一文くらいしか紹介されていないので、殆どどんな人だか全然知らなかった。テストとかで、「江戸時代中期の国学者で、古事記の研究をし、「古事記伝」を執筆した人は?」という問題で登場する位で終わり~~、って感じだろう。正解でも5点くらいの加算で終わり~・・みたいな。こういったサイクリングのついでに雑学的に色々なことを知るのは良いことだ。まぁ、大人のポタリングってやつですな。またブログに書くことで、帰ったあとで色々調べなくてはいけないし・・・。知って為になるということではなくて、こういったことを吸収しようとする姿勢がね・・・。また忘れちゃうかもしれないけど、姿勢の問題ですな。姿勢の・・・。
さて、当日のサイクリングの記事に戻ってと・・・。記念館の裏に記念碑が有る。

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本居宣長と賀茂真淵のたった一度の歴史的な出会い「松阪の一夜」を記念し、その対面となった日の町の旅屋「新上屋」跡に建てた記念碑を、ここに移転したらしい(下の写真の左手の記念碑)。

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さて、記念館から、先程一旦スルーした「鈴屋」へ戻る。「狸門跡」を通って・・・。

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門をくぐると、「鈴屋」(下の写真)。

『鈴屋』(本居宣長旧宅)

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本居宣長旧宅は、宣長12歳から72歳で没するまで60年間にわたって暮らした家である。建物は1691年(元禄4年)に松阪職人町に建てられた。
その後、魚町に移築された。宣長当時の所在地は「魚町」である。
明治42年、保存のために松阪城跡の現在地に移築され、宣長当時の姿に復元し、公開している。この建物の二階の書斎を「鈴屋」と呼ぶ。
建坪74.25平方メートル。昭和28年3月31日に国特別史跡指定。

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宣長が医療活動をした「店の間」、「仏間」、また講釈や歌会に使用し、二階増築までの書斎であった「奥の間」など一階の各部屋は上がって見学出来る。
二階「鈴屋」は保存のために上がって見学は不可。石垣の上に見学場所が設置されているのでそこから見ることが出来るとのこと(それを見逃したよ!)。

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中に入りましょう。
暗くて、フラッシュをたかないとうまく撮れない(←僕の写真技術がゼロだから)。でもそれだと雰囲気が伝わらない。なので、フラッシュ有りと、ぼやけ気味でフラッシュ無しの写真を併用しま~す。
玄関を入ると左手に「店の間」(下の写真)。

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格子からの陽の漏れ具合が良いね(下の写真)(フラッシュ無し)。

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「中の間」「奥中の間」・・・と奥に続く。

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「奥中の間」(下の写真)。フラッシュ無し。

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フラッシュ!

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こんな感じで・・・。

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「階段の間」と「仏間」(下の写真)。

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「仏間」の正面(下の写真)。

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またフラッシュ!

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「階段の間」もフラッシュ!(下の写真)

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更に奥にも部屋が続く(下の写真)。その向こうに庭。

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「調理場」関係・・・。

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さて、これで「鈴屋」を出る。
さっき書いたけど、二階の様子を外から眺める場所が有ったのは気が付かなかったよ~。残念。・・・ま~良く有るんだな~、こういう大事な所を見逃すことって・・・。僕ってなかなか完璧ポタリングって出来ないですな(実はこの後もうっかり肝心の場所を見逃すことに・・・(T_T))
何にしても、こういう鈴屋のような所は実際に生で見てくださいな。そのほうが雰囲気が伝わるよ。・・・ま、ホントは写真撮影が下手だから伝えられないんだけどね~~(^^ゞ

本居宣長とはさよならして、「二の丸跡」へ・・・(下の写真)。

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中央に巨大な藤棚が有る。

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立派なものですな。

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開花時期には凄い綺麗なものが見れそうですな。

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その隣の松の木も立派(下の写真)。

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角度を変えるとまた違う曲線美。

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「二の丸跡」から南東の方角の町並みが見える。

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先程の北西の方角の街並みに比べ、こちらのほうが、古い建物が多い感。
日本家屋の屋根が目立つ。

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たぶん、旧参宮街道が通っているせいかもな。

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いい眺めだ・・・ん?城??(下の写真)

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「松阪城跡」巡りのラストは、城跡敷地内に有る「歴史民俗資料館」へ(下の写真)。

『松阪市立歴史民俗資料館』
(公式HP→「松阪市立歴史民俗資料館」)

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飯南郡図書館として1912年(明治45年)に建てられた木造2階本瓦葺の風格ある建物を利用。館内には松阪もめんと松阪おしろい(軽粉)の資料や民具を展示。

館内に入って入館料を払う。このあと行く予定の「松阪商人の館」との共通券を薦められたので購入(これが後々僕の大きなうっかりを生むことに・・・)。
さて・・・見学開始。

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「店の間」(上と下の写真)

江戸時代の店を復元。

薬種商桜井家の看板(下の写真の二つの看板)
参宮街道沿いの湊町にあった薬種商の三代目主人桜井七右衛門は旅人の困っている様子を見て正徳6年(1716)に足の膏薬「萬能千里膏」と腹痛薬「黒丸子」を売り出し成功した。
この豪華な二つの看板は当時京都の書画の大家だった池大雅が書いたもの。

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次いで、色々展示物を紹介したいところだが、撮影禁止のものが多い。

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撮影してもOKそうなものを遠くから撮った物だけ載せておこう。なので、細かい説明も省略。館内の雰囲気だけということで・・・。

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松阪城や武家・商家屋敷のものなどなども展示。

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瓦とかね。

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二階の展示室に上がる。踊り場の壁には大凧がかけてある(下の写真)。

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二階の展示室(下の写真)。

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松阪の古くの産業や生活に関する展示。
機織り機が並んでいる(下の写真)。

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自動筬織機(下の写真)。

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織る前に糸を紡がないとね(下の写真)。

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綿くり器(上の写真の下段)ですな。松阪の「松阪木綿」は有名です。

500年ほど昔、日本で棉(わた)が栽培出来るようになると、水はけがよく、肥料にする鰯も沢山とれる伊勢平野では、見渡す限り棉が作られ、棉作りが普及すると、この技術が木綿織りにいかされ、さらに藍を基調に暖色系のタテジマを配したものが、「機殿(はたどの)」を中心に古代から受け継がれてきた紡織の技術と結びついて、たちまち木綿織りが盛んになった。
それに、早くから江戸に進出した松阪商人が売りさばいたのと、お伊勢まいりの土産として全国に広まったので、「松阪もめん」は当時の江戸庶民の粋なファッションとなった。
松阪市周辺は古代紡織の中心地で今も麻と絹を織って伊勢神宮に納める「機殿」がある。

松阪木綿と藍染は切っても切れません。

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藍の素の葉ですな(下の写真)。

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もうひとつ、松阪に関連した古くの特産物に「伊勢白粉」が有る。

伊勢白粉(おしろい)とは・・・

丹生鉱山に近接する三重県松阪市射和地区を中心に生産されていたので射和軽粉ともいう。また、御所白粉、ハラヤともいう。水銀系の白粉の成分は、塩化第1水銀(甘汞)であり、透明の結晶体である。原料は水銀の他に、食塩・水・実土(赤土の一種)である。
製法としては、水銀・食塩・水・実土をこね合わせ、鉄釜に入れて粘土製の蓋である「ほつつき」で覆って約600℃で約4時間加熱する。すると、「ほつつき」の内側に白い結晶が付着する。これが塩化第1水銀であり、これを「ほつつき」から払い落とし、白い粉状にしたものが水銀白粉である。
白粉は鎌倉時代に中国から製法が伝来したとされる。当時の白粉の製法には水銀の存在が不可欠であり、丹生鉱山が存在するこの地域に伝播することになった。文安年間(1444年ころ)には、窯元が83軒ほど存在していたという。享徳2年(1453年)には三郡内神税御注文に、軽粉窯元に対して課税がなされた。鎌倉時代から軽粉座が存在し、これは伊勢神宮が本所となっていた。その後、本所は公家である京の薄家となり、現地に代官が置かれる事となった。伊勢射和白粉公用として、年に6貫文が本所に納められた。その後、本所は北畠家等に移った。
射和の軽粉商は、白粉の他にも小間物等も扱っていた。当初、白粉は化粧品であると同時に、腫れ物といった皮膚疾患を治す薬品として貴族の間で珍重されていた。また、時としては外用ばかりでなく、腹痛の内用薬としても用いられていた。これが一般に広まったのは、伊勢神宮の御師が諸国の檀那に大神宮のお祓いと共に白粉を配るようになった事がきっかけである。室町末期には鉛白粉が輸入されだし、丹生鉱山の水銀から輸入水銀に原料を転換している。鉛白粉の普及に押されていたが、16世紀頃に梅毒が流行、18世紀頃になると伊勢白粉は駆梅薬として再び注目される事となった。また、シラミ除けの薬として人ばかりでなく牛馬にも使用された。
しかし、窯元も17軒程度に減少し、軽粉座も崩壊して江戸時代には株仲間となった。元和6年(1620年)には、鳥羽藩領射和から正米29石5斗が納税され、寛永10年(1624年)以降は25石に減少させて納税した。江戸時代には新規の窯元設立を規制し、16基に制限された。
明治時代に入ると製造過程で水銀中毒が続発した事や洋式の第1塩化水銀の製法が普及した事、医薬品の法的規制の強化によって窯元は減少していった。昭和28年(1953年)に最後の窯元が廃業して伊勢白粉は途絶した。
(「Wikipedia」より)

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水銀鉱石(上の写真の左)と水銀入れ(上の写真の右)。水銀入れは竹製。
下の写真の右の鉄製の容器に食塩,赤土,苦汁そして水銀を入れて、左のようにセット。

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上の写真の右に説明図が載っているが、あのように約600℃で2時間加熱。1時間冷却後、ホッツキの内側に付いた白い粉(伊勢白粉)を羽毛(下の写真)で掃き採り、紙に包んで販売した。

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下の写真の容器に紙包みを入れて販売したようだ。

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海外にも輸出していたのか(下の写真)。

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射和で作られた水銀白粉は、伊勢街道沿いにある松阪の白粉屋で売られていた。当初は京都の公家への贈り物だった。しかし、室町時代後半頃から伊勢参りのお土産として、軽くて荷物にならない白粉が喜ばれ、広まった。伊勢白粉の成分は、塩化第一水銀。軽い鱗片状の結晶がキラキラ見える。しかし、水銀白粉は次第に虱除けや梅毒の治療薬としての使用が主目的になり、白粉として使用量は激減していった。
そして、昭和28年に窯元宮田吉兵衛氏の廃業により、射和の伊勢白粉は製造が途絶えた。

「ちょっと昔の道具たち」というコーナーも有る(下の写真)。

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あのこたつは初めて見た。

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湯たんぽくらいはずっと子どもの頃に使ったことが有るな。
黒電話は全然馴染み有り。

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あ~~、ああいう白黒テレビは子どもの頃に有ったような気がする。・・・もうちょっと新しいタイプだったかな。

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さて、「歴史民俗資料館」を出、「松阪城跡」をあとにする。時刻は10:30。結構長居したな~~。
ここで僕は痛恨のミス。松阪城跡の南隣り、「裏門跡」と「搦手門跡」を結ぶ道路の両側に「御城番屋敷」という、長い棟割長屋が建ち並んでいる。道路は石畳で覆われ、両側には槙の生け垣が並んでいてとても風情の良い場所が有る。松阪市街地の代表的観光スポットだ。勿論寄る予定だったのだが、この「歴史民俗資料館」で「松阪商人の館」との共通券を買ったことで、“次は「松阪商人の館」”と頭がいっぱいになり、すぐ近くの「御城番屋敷」のことをすっかり忘れた(帰りの輪行の電車の中で思い出した)。・・・・残念orz。やってしまった。どうもちょっと中途半端になりますな~・・・・僕のポタリングは・・・。

で、「御城番屋敷」のことをすっかり忘れたまま「松阪商人の館」のほうへ。
駅周辺は「氏郷まつり」で大混雑のようだ。そこで少し離れた阪内川沿いに下流のほうへ(下の写真)。

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阪内川から離れて「松阪商人の館」へ(下の写真)。ここは本町の旧参宮街道の一部である。

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『松阪商人の館』(下の写真)
(サイト→「松阪商人の館」)

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時刻は10:45。中へ(下の写真)。

1588年(天正16年)、戦国時代の武将、蒲生氏郷により開かれた松阪の城下は、江戸時代になると商人の町として大いに栄えた。主に松阪木綿を扱う豪商は、江戸時代前期にいちはやく江戸(あるいは京・大阪)に店を構えたが、その商品は粋好みの江戸っ子たちにもてはやされ、年間五十数万反(当時の江戸の人口の半分)の売り上げを誇ったといわれている。
松阪商人の館は、その江戸期の屈指の豪商・小津清左衛門の邸宅を資料館として公開しているものである。展示品の中には「千両箱」ならぬ「万両箱」もあり、その広い屋敷はまさに「江戸店持ち伊勢商人」の風格を感じさせる。
(「松阪商人の館」より)

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小津清左衛門家の沿革・・・
小津家は、伊勢国司北畠家の一族の木造(こつくり)家に仕えた、三好隼人佐長年を先祖としている。
創業の祖とされる3代目長弘は、1653年(承応2年)に、大伝馬町一丁目に紙店「小津屋」を開業した。その後、1698年(元禄11年)には隣地へ木綿店「伊勢屋」を、1784年(天明4年)には本町四丁目へ紙店(向店)を開業している。また、松阪においては数多い江戸店持ちの豪商の中でも筆頭格に挙げられ、1755年(宝暦5年)には三井、長谷川、長井等とともに紀州藩の御為替御用を命じられている。
明治以降は、紡績会社や郵便船会社等の経営に参画し、また明治32年には小津銀行、同36年には小津細糸紡績所、大正9年には小津武林起業会社を設立している。その後、大正12年の関東大震災、昭和2年の金融恐慌を機に経営が悪化したため、同4年には法人経営に代わり、合資会社小津商店となった。
現在でも、紙業と不動産業を中心に創業以来の場所で脈々と営業を続け、小津グループとして発展している。
(「松阪商人の館」より)

下に見取り図を載せておく。とても見難いが、何となく字が読めると思う(これでご勘弁を~~)

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敷地面積 1118.51㎡
主屋(木造二階建)545.53㎡
中心部分は17世紀末から18世紀初頭に建設され、その後、明治初期まで数度にわたり増築・改修が行われている。内部には「見世の間」「奥見世の間」「勘定場」「供部屋」「茶の間」「お家の間」「表座敷」「奥座敷」「向座敷」等、20余りの部屋が有る。

公開されているのは一階部分のみ。
それでは土間から上がって・・・「お邪魔しま~~す。」

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「見世の間」(下の写真)

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「奥見世の間」(下の写真)外からの光の入り方が良いね。

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土間沿いに戻って、「見世の間」(下の写真の一番奥)から「勘定場」(その隣)、「お家の間」(その隣)、「台所」(手前の階段の有る部屋)。

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「台所」から回り込むと「奥座敷」へ(下の写真)。

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「奥座敷」(下の写真)

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隣の「表座敷」との間に下の写真のようなものが・・・。

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「奥座敷」から回り込んで隣の「表座敷」へ(下の写真)。

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下の写真の奥が「奥座敷」で、「表座敷」に入ったところ(下の写真)。

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「表座敷」(下の写真)
押し入れ側(下の写真)

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「表座敷」の床の間側(下の写真)。「奥座敷」との境はこちら側でこうなっているのか・・・。

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「表座敷」の床の間(下の写真)。

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「表座敷」から中庭前の廊下に出る(下の写真)。

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庭(下の写真)。

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庭に面した廊下から「お家の間」に入る(下の写真)。
くつろぎてぇ~~。ごろっと転がりたい。

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「お家の間」(上と下の写真)。
土間側の隣部屋は「口お家の間」。その向こうに土間が見える。

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廊下に沿った隣が「茶の間」(下の写真)。

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「茶の間」の隣が最初のほうで載せた「奥見世の間」で、一周したことになる。
「奥座敷」のほうまで戻り、奥座敷とは廊下を挟んで「湯殿」が有る(下の写真)。

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「湯殿」(下の写真)。

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脚は伸ばせませんな。体育座りですな。

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「湯殿」のまま(下の写真)。

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「厠」(下の写真)。

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20101103ride_189s 「内蔵」(右の写真)

木造二階建て 73.04㎡
18世紀初頭に建設。現在内部は展示室になっている。小津清兵衛門並びに松阪商人の資料を公開している。

内部の撮影は禁止。

再び土間に戻る(下の写真)。
土間を挟んで向こうは「向かい座敷」(下の写真の右手に少し見えている)だが、写真撮影禁止のものも有るので、写真は無し。
寝転がって休みたい気分になる部屋だ。勿論そんなことはしませんが~~。

再び土間に戻って、調理場関係を・・・。

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「竈」(下の写真)

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蒸し器が有るな。

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竈の裏(下の写真)。

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その上の屋根(下の写真)。

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「調理場」へ(下の写真)。

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ここに座って作業をするんですな。

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「流し」(下の写真)

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「井戸」(下の写真)・・・だと思う。

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最後に・・・土間に置いてある「万両箱」(下の写真)。儲かってまんがな~~。

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他にも「井戸屋形」「厠棟(来客用)」「前蔵」とか有る。

さて、「松阪商人の館」をあとにし、次へ・・・。時刻は11:10。
「松阪商人の館」の有る「旧参宮街道」には「三井家発祥の地」も有る(下の写真の右手の柵の向こうが門)

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非公開で、中には入れない。

1673年(延宝元年)に江戸に呉服店越後屋(三越の前身)を開き、両替商としても成功した三井高利が生まれ育った所。三井家は明治になって三井銀行や三井物産を設立、三井財閥を形成した。

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西町の旧参宮街道は商人の屋敷らしい豪壮な白壁が目立つな。
さて、次は・・・。「氏郷まつり」で大混雑する商店街を回避しつつ、その裏通りに有る「継松寺」へ(下の写真)。

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『継松寺』(下の写真)
(公式HP→「岡寺山 継松寺」)

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正式には「岡寺山継松寺」。通称「岡寺さん」。
高野山真言宗。
本尊は如意輪観音。
寺に伝わる『継松寺儀軌』によると、743年(天平15年)に、聖武天皇の勅願により行基菩薩が創建したとのこと。聖武天皇42歳の厄年の際に、本尊如意輪観世音菩薩を宮中に奉りし祈願した後、再び当山に安置したことから、厄除け観音としてこの地域の厄年の参拝者が多く訪れる。 
後に洪水により堂は流失したが、その際に海中より本尊を拾い上げた二見の漁師であった三津五郎右衛門正信が弁財天のお告げを聞いて出家し継松法師となり、寺を再建したことから継松寺と名付けられるようになった。
また弘法大師空海が当山に逗留した折に本尊の両脇に不動尊と毘沙門天を造り、安置したと伝えられている。
元は石津にあったが、1612年(慶長17年)、松阪城主古田重治により現在地に移された。

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ここに参拝するのは、二度目。最初に参拝したのは10年ほど前で、自転車には全く興味が無かった頃に、寺社仏閣巡りの趣味の中でここを訪れた。

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山門の外に駐輪して境内へ。綺麗な境内だ。

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街中に有るということが分かるだろう。周りに高い鉄筋コンクリートのビルがそびえ立つ。それと対照的に美しい「本堂」が有る(下の写真)。

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ここまでの無事を感謝し、これからのサイクリングの安全を祈願。

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本堂の隣に「大師堂」(下の写真)。渡り廊下で本堂と繋がっている。

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境内にいると街の賑やかさから離れ、少し閉ざされた気分で、良い。

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さて、「継松寺」をあとにし、「氏郷まつり」を回避して松阪駅前の賑やかな場所から少し離れる。
ちょっと迷走しつつ、松阪駅の南1km程の所の愛宕町にある「小津安二郎青春館」を訪ねてみる(下の写真)(迷走しているので、途中の写真は無し~~)。時刻は11:40。

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『小津安二郎青春館』(下の写真)

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昔の映画館のような造りになっている。

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小津作品の映画の看板が並んでいる。

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小津安二郎
1903年(明治36年)12月12日、東京深川の下町に、豪商湯浅屋の番頭だった父虎之助と母あさゑの次男として生まれた。9歳のときに父の郷里である三重県の松阪へ転居。その後旧制三重県立宇治山田中学校(現・三重県立宇治山田高等学校)に入学。映画館通いに熱中して学校の授業には出なかったため、不良学生として寄宿舎から追放された。1921年(大正10年)神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を受験して失敗。1922年(大正11年)、三重師範学校(現三重大学教育学部)受験も失敗し、現在の松阪市飯高町にある山村の宮前尋常小学校に1年間の代用教員として赴任。いつも羽織と袴、そして、下駄履きと他の教師とは違った異彩を放った風貌で、児童たちに映画の話をしたり、マンドリンを弾いたりして慕われる。
1923年(大正12年)3月に上京し、親類のつてで松竹キネマ蒲田撮影所に入社。大久保忠素に師事する。1927年(昭和2年)『懺悔の刃』で初監督を務めた。
戦前はハリウッド映画の影響を受けたモダンな作風で知られ、喜劇映画も数多い。1932年~34年まで、作品が3年連続でキネマ旬報1位となるなど、芸術的には既に若き巨匠としての地位を確立していたが、興行的な成功にはなかなか恵まれなかった。小津にとって初めての大ヒット作は1941年の『戸田家の兄妹』であり、同時にキネマ旬報1位も獲得している。
戦争中は軍部報道映画班としてシンガポールへ赴任。同地でヴィクター・フレミング監督の『風と共に去りぬ』、戦後長らく日本では公開されなかったオーソン・ウェルズ監督の『市民ケーン』など、接収された大量のハリウッド映画を観て過ごす。
戦後は『長屋紳士録』で復帰。戦前の延長である小市民映画での試行錯誤を経て、1949年の『晩春』で、戦後の小津映画を貫くスタイルに到達した。以後、『麦秋』『東京物語』などの名作を立て続けに発表し、興行的な成功も得て、日本映画界の重鎮となる。この時期の多くの作品は野田高梧との共同脚本であり、原節子や笠智衆などをメインキャストとしている。
1951年『麦秋』で芸術祭文部大臣賞、1953年『東京物語』で同賞および英国サザランド賞受賞。1955年日本映画監督協会理事長。
戦後、母の疎開先である野田市に復員したが(小津の妹が、キノエネ醤油の山下家に嫁いでいた関係で、母が野田に疎開していた。小津自身も1946から1952まで野田に住んだ。)、やがて鎌倉に住み、里見弴と親しくなって、1958年里見と相談して同時並行で原作小説とシナリオを書き進め『彼岸花』を完成、1960年には同じ方式で『秋日和』を完成した。『彼岸花』で三度目の芸術祭文部大臣賞、功績により紫綬褒章受章、1959年日本芸術院賞受賞、1960年芸術選奨文部大臣賞を野田とともに受賞。
1962年二人暮らしだった母を失う。同年11月に映画監督として唯一の日本芸術院会員に選ばれる。
1963年(昭和38年)、里見とともにテレビドラマシナリオ『青春放課後』を書くがその後体調に異変あり、同年4月がんセンターで手術、いったん退院するが10月に東京医科歯科大学病院に再入院、12月12日に死去した。60歳没、生没同日であった。
死後勲四等旭日小綬章を追贈された。

僕は小さい時にTVで放映された「東京物語」を観ただけですけどね~。

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駐輪して中へ。内部の品々一つ一つの撮影は禁止だが、館内全体の様子は撮影を許された。なので、パチリ(下の写真)。

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中で小津を紹介するDVDを見せられた。そのあと、品々を見学。そのあと、館員のおばさんとちょっと会話したりして・・・。
昔の日本の映画って今大人になって見ると結構良い物だな~と感じることが多い。今はDVDで復刻されているものも多いだろうから、いつか探して見てみよう。

さて、松阪市街地周辺のポタリングはここまで。時刻は12:15。
前述のように行き忘れた「御城番屋敷」、それから「樹敬寺」等、まだ見所は有るが、この日は街中が賑やか過ぎてちょっと敬遠気分。そういうわけで、ここからこの日のポタリングの後半、伊勢沿いの吹井ノ浦のポタリングへと移行する。ここまでたいして走っていなかったが、ここからは走り中心だ。と言っても、写真撮影しまくりでちょくちょく止まることになるだろうが・・・(^_^;)
・・・あ、そうそう、もし皆さんが同じようなことをするのでしたら、松阪牛のランチをしてくださいな。色々美味しそうな店が有りますよ~。僕は・・・入りません。いつもの“グルメ度ゼロ”のサイクリングで~~す。

小津安二郎青春館から旧参宮街道に出、先ずは旧参宮街道を東に走って、櫛田川に出ることを目指す(下の写真)。

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幅員の狭い道を抜けていく。

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クルマはちょくちょく通るが、国道や県道に比べて全然少ないと思う。

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ずっと昔はここを通ってお伊勢参りをしたのだろう。
今では、家々が建ち並ぶ普通の道のようですな。

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JR紀勢本線の線路を通過(下の写真)。

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ホームが少し見えているがあれは「徳和駅」(上の写真)。

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上の写真の様な道がずっと続いていたが、たまに下の写真のような幅員の広い区間も有る。

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その一方で、下の写真のように田畑まで道沿いに見られるようになってくる。街から離れてきていることが良く分かるだろう。

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ひたすら走り続ける。

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細い道だがポタリング的にはOKですな。

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昔の古民家風の家も道沿いに垣間見える(下の写真)。

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松阪市街地では走っている気がしなかったので、その分、今ようやく走っている気分になっている。

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そうこうしていると、広い道に合流(下の写真)。僕は“C”から来た。
“D”⇔“B”間は県道37号で、交通量が多い。

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ここの交差点は櫛田川のすぐ傍。
僕は県道37号に入らずに“A”の狭い道へ(上の写真の左下と下の写真)。
ちなみに“B”へは県道37号の登り坂が続いていて(上の写真の右下)、櫛田川の土手に上がり、「櫛田橋」に出る。だから“B”でも結局は同じ。
そこをあえて“A”へ(下の写真)。

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クルマが殆ど来ない道を通って、下の写真の黄色の矢印のように、櫛田川左岸の土手へ上がる。“B”へ進んでいれば県道37号でこの土手に上がれたわけ。

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向きを変えて撮影すると下の写真のような感じ。下流の方角に向かって撮影。

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そして、ここから櫛田川沿いに伊勢湾を目指して走る。

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幅の広い櫛田川の下流域(下の写真)。

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背後に「櫛田橋」(下の写真)。

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これを背に、伊勢湾へ(下の写真)。左岸は快走路だ~。

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近鉄山田線を横断(下の写真)。

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清々しい道だ。

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近鉄山田線の鉄橋(下の写真)。

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穏やかな櫛田川下流域(下の写真)。

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な~んか爽快。

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たまに川から離れる(下の写真)。

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クルマは時々通る。裏道的に使われているのだろう。
ここは夜だと危ないな。街灯が無いので、土手から落ちるかも。

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日中は良い道です。サイクリング向きですな。

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再び櫛田川と接近(下の写真)。

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続くね~、爽快路♪

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やがて県道60号とぶつかる(下の写真)。

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ここで「魚見橋」で右岸に渡る。

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車道部分の橋は狭く、クルマはそれなりに往来しているので、横に並行して走る歩行者用の橋へ入る(上の写真の黄色の矢印)。

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橋の上から櫛田川の上流側を見る(上と下の写真)。広いね~。綺麗だし。

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橋も長い。

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渡り終えたところで左折。車道を横断して右岸沿いの道に入る(上の写真の黄色の矢印)。ちなみに県道60号は右に下っていく。
右岸沿いの道もGOOD(下の写真)。

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右手に田畑が広がる。

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気持ち良い道だ。ただ、この日はちょっと風が強い。横風気味。

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今度は左手に櫛田川(下の写真)。

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快走路を進む。クルマはたまに通る。

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櫛田川を左に流しながら進む。

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櫛田川沿いの道・・・正解だな。

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やがて、国道23号にぶつかる(下の写真)。左右に走っている橋と道が国道23号。

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土手沿いの道からそのまま横断できる所は無い。上の写真の右手の下り坂を通って、国道23号の下をくぐる。
くぐり終えて再び土手へ上がる(下の写真)。

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程無くして県道705号とぶつかる。下の写真は県道705号の橋の上から河口方面を見たところ。ここから「松阪伊勢自転車道」に入る。下の写真の右岸土手の道が「松阪伊勢自転車道」だ。ちなみに「松阪伊勢自転車道」は「旧参宮街道」とは離れた、もう少し海に近い道を通っているのだが、交通量の多い普通の一般道の歩道(これがまた走りにくそう)を自転車道指定しているようなので、今回は回避して旧参宮街道経由にした次第。

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エメラルドグリーンの川が海に向かって静かに流れている。

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その右岸沿いに伊勢湾を目指す。

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快走路だ~~♪

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櫛田川河口より西の海岸沿いは工業地帯の埋立地が多い。下の写真にはそれらが遠くに写っている。

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いいね~、この道。

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あ、そうそう。自転車道指定だけど、クルマはたまに通るよ。

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それでも快走路♪

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気持ち良く走っていると・・・海!(下の写真)。

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櫛田川の河口(下の写真)。

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中洲が出来ている(下の写真)。

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海岸に近づこう。

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クルマはごくごくたまに通る、堤防のような道に入る。ここも「松阪伊勢自転車道」指定。

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伊勢湾です(下の写真)。時刻は13:50頃。

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幅470pxの写真では伝わらないけど、水平線がグ~~っと広がる良い景色です。

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風が強い。そして、マリンスポーツで遊ぶ人達。

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サーフィンとパラグライダーが融合したようなマリンスポーツですな。

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何と言うマリンスポーツでしょう。

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遠くに津市側の海岸も見えますな(下の写真)。

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伊勢湾を流しながら少し進む。

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「松名瀬海水浴場」に到着。

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堤防から下に降りてみるか。

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ボートの横を通って・・・。

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砂浜へ到着。

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ここが「松名瀬海水浴場」。

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人は僕だけ。あとは波と風の音だけ・・・。

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吹井ノ浦の海岸が西に続く(下の写真)。

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青い海と青い空。いいね~~。

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松名瀬海水浴場での動画をどうぞ(殆ど風の音ですが)。↓

14:00近いのでここでようやく補給食タイム。海の音を聞きながら、ちょっと冷たい風に吹かれつつどら焼きタイム。松阪牛とは縁無し・・・。
食べ終えたら先へ。これから吹井ノ浦沿いに「松阪伊勢自転車道」を進む。

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左に伊勢湾を流しながらね。

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広がる水平線。

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伸びる吹井ノ浦。

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気持ち良い自転車道ですな。

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ポタリングにうってつけ。

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予想以上だよ。

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右手には田畑が広がる(下の写真)。

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そして左手には海が広がる。

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青と緑に挟まれた快走のサイクリングロードだな。

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斜め後ろには松阪市の海岸沿いの工業地帯が見える(下の写真)。

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正面には何処までも続く海岸と道。

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晴れた日曜の午後・・・

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最高の過ごし方ですな。

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そう思いません?

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やがて堤防沿いの綺麗なコンクリートの道が途切れる(下の写真)。

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この先に「中ノ川」の河口が有るので、堤防が切れるのだ(下の写真)。

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打ち寄せる波が間近に・・・。

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水平線の向こうは知多半島か、渥美半島か・・・?

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さて、先程書いたように、ここで堤防沿いの道から離れ・・・。

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中ノ川沿いに少し進む。

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ボートが停泊している。

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暫く進むと・・・。

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堰の上に出る(下の写真)。

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海側とは反対の中ノ川の上流方面(下の写真)。

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河口側の眺め(下の写真)。

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河口です(下の写真)。

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堰の上を通って川の対岸へ。あちらに道が続いている。

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今度は中ノ川右岸沿いに海の方へ・・・(下の写真)。

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河口を見つつ・・・。

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路面はちょっと悪くなっていますが、問題無いレベル。

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砂利区間も有るけどね。

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それはほんのちょっと。
また海が見えてきた(下の写真)。

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そして綺麗な道がまた海岸沿いに続いている!!

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お~~、いいわ~~。

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マジで良いな、このコース。

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走ってみたくなりません?

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でしょ?こういう景色を流しながらさ~~。

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ずっと向こうに見えているのは伊勢市の海岸かな?(下の写真)

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何処まで続く!?

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この快走路!♪

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海と空の組み合わせがたまりませんな。

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路面も綺麗だし。クルマはたま~~に通る程度。

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こういう景色を見せられちゃうとね、も~~、ちょくちょく停まっちゃうよ。

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実はこの辺りは松阪市ではなく、隣の明和町。松阪市と伊勢市に挟まれた伊勢湾沿いの小さな町だ。

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松阪市街地方面の海岸がだいぶ遠くになったな(下の写真)。

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右手には防砂林として綺麗な松並木が続いている(下の写真)。

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左手には伊勢湾が続いている。

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こういう所を走っていると非日常に酔いしれちゃうんだよね~~。

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それを味わうためにサイクリングしてるんですよ~。

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路面が荒れてきた(下の写真)。

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さっきの中ノ川河口と同じように、また河口に近づいている。

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波しぶきが結構上がっている。

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さて先程の中ノ川と同じように、一旦海岸から離れる(下の写真の黄色の矢印)。

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また堰の上まで回り込んで、対岸へ渡る。

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右岸に道が続いている(下の写真)。渡ったら左折。

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少し荒れた道を進む。

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海は見えないけど・・・。

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ちょっとすると海と再会♪

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またまた綺麗な道と綺麗な海が続いている。

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マジいいでしょう?

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海岸沿いの工業地帯もまだ見える(下の写真)。

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どこまで続く?

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いや、まだ続いていて欲しい!

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気分良いし~~。

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吹井ノ浦、

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とっても良い海岸ですな。

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しかし・・・残念。どんなことにも終わりは来るもの。祓川近くの河口で行き止まり(下の写真)。

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祓川左岸に沿って自転車道は伊勢湾から離れる。
祓川を渡って対岸からまた海沿いの道を続けることも出来ないことは無いかもしれないが、ここはまぁ、素直に海から離れましょう。さらば、伊勢湾。
で、とっても分かりにくいが、適当に祓い川近くの道を進む。

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ぶっちゃけ、自転車道か分からないけど。

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ま、そもそも松阪伊勢自転車道の完全トレースをやっているわけではないので、別に外れても良い。ここからは帰りの輪行に向けて帰路なので、どこか近鉄線の駅に付けばいいや~。

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と言う感じで、テキトーに川沿いを進む。路面荒れ荒れ(下の写真)。

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祓川の河口付近は地形がちょっと複雑で、本当のところ、左手に見えているのは川のメインの部分ではなく、溜池のようにはみ出している所みたい。

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暫くすると、川沿いの道はチェーンで通行止め(下の写真の左上)。
右手に田畑を貫く道が伸びている(下の写真の右上)。そちらへ。

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真っ直ぐな道が田畑の間に伸びている(下の写真)。松阪伊勢自転車道かどうかは分からない。

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ある意味、ポタリングにうってつけの長閑な道だ。

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ただ、周りにこれだけ田畑が広がると・・・。

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方角が分かりにくい。

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適当に進むと引き返すのがたいへんそう。とにかく突き当りまで進もう(下の写真)。

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突き辺りで田園地帯から一旦脱出出来そう。右手に賑やかそうな道が見えるのでそちらへ(下の写真)。

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その“賑やかそうな道”の下をくぐって、回り込むように、その道の上に出る(下の写真)。遠くに県道705号であることを示すヘキサが見える。

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これは祓川にかかる県道705号の「下御糸橋」だ(上の写真の下段)。そしてこの歩道が松阪伊勢自転車道に指定されているようだ。一旦外れたのか、それともちゃんとトレースしていたのか分からないが、とりあえず今、自転車道上にいる。
橋を渡って県道705号を東に向かう(下の写真)。

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おお、凄い快走路(下の写真)。地元のローディが颯爽と向こうの車道を走り抜けていった。僕はノーヘルなので、歩道の自転車道を進みま~~す。

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両側に田畑が広がる。

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フラット・ロードが続く。

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気持ち良く進んでいると、「八木戸橋」に着く(下の写真)。

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「笹笛川」(下の写真)に架かる橋だ。

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海の方角(下の写真)。海までは見えないな。

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橋を渡って暫くすると右折。県道705号は急に狭い道になる(下の写真)。

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で、このあと、どうやら自転車道から外れてしまい、迷走。迷走中の写真は無し。民家の間の狭い道を右往左往していたら川に出る(下の写真)。

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地図を見たり、辺りをきょろきょろして・・。どうやら「大堀川」という川のようだ。
完全に自転車道から外れていることが分かる。松阪伊勢自転車道は先程の「笹笛川」を渡ったらすぐに右折しなければいけなかったようだ。僕は県道705号を走り過ぎたようだ。二つ上の写真の時点で既に間違えていた次第。
もうとりあえず、近鉄線のどこかの駅に着けば良いので、先ずは大堀川沿いに南へ・・・。

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田畑の中の道を適当に進み・・・。

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国道23号(国道42号との重複区間)に突き当る(下の写真)。突き当ったところは国道の側道部分で、歩道のようだ(下の写真の上段)。ここで右折。

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暫くすると県道510号との交差点に出る(上の写真の下段)。ここで国道を渡る(上の写真の黄色の矢印)。
で、県道510号には入らずに、一旦側道へ(下の写真)。

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県道510号とは並行して走る、交通量の少ない側道で南へ(下の写真)。

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長閑な道を進む。

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暫くすると県道510号と合流。ここからは素直に県道510号で南下。

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幅員が狭いのでクルマのすれ違いは結構大変そうだ。

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写真には撮り忘れたが、道なりに進むとおおきな交差点に出、ここで左折。線路らしきものが見えたからだ。おそらく近鉄線だろう。そうなれば、線路近くを走れば駅に辿りつける。
で、線路を踏切で渡る(下の写真)。その際に左手の線路の向こうにホームらしきものが見えたので、そちらを目指す。

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線路からちょっと離れた道を方角を見失わないように進む。県道428号に入ったようだ。すると、「近鉄明星駅」の道標が見える(下の写真)。お~~っし、これで安心。

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道標に従って左折。暫くすると・・・。
「近鉄山田線・明星駅」。ここでゴール。時刻は16:00頃。丁度良い時刻だな。

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もし、松阪伊勢自転車道を外れていなかったら、松阪駅により近い隣の「斎宮駅」に着いていただろう。まぁ、今回はこれでいいです。

で、自転車を輪行袋にパッキング。
16:21の普通列車で一旦松阪駅へ(下の写真の右)。

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20101103ride_395s 松阪駅で結構待って、17:13の快速急行上本町行に乗り込む(右の写真)。特急のほうが間違いなく早く着けるんだけど、近鉄の特急は輪行袋を置きにくいんですわ。特急以外なら、むしろ他の路線に比べて輪行袋はとても置き易い。だから、近鉄の場合は極力特急以外の列車で輪行しているんです。
さて・・・一路大阪市内へ。上本町駅の一つ手前、鶴橋駅で乗り換え、あとは幾つかの路線を乗り継いで最寄りの駅へ・・・。時刻は19:00をとっくにまわっている。
自転車を組み立て、僅かな距離を走り、無事に帰宅。時刻は20:00。
一瞬、「あ!龍馬伝、龍馬伝」と居間に駆け込んだが・・・。今日は11月3日の水曜日でした。祭日でしたね。

そういう感じで、この日は松坂のポタリングを充分に楽しめた。
前半は松阪城跡を中心に観光スポット巡り。走りは少ないけれど結構満足。色々雑学的な勉強にもなったし。(本文でも書いたが)“大人のポタリング”ってやつですな。「御城番屋敷」を見忘れたのが痛恨だったが、まぁしょうがない。また来ることも有るでしょう(皆さんは見忘れないように)。松阪に行きながら松阪牛を食べなかったが、まぁ、“グルメ度ゼロ”のサイクリングらしいな。ランチぐらいなら手頃な値段で何か食べれると思うけどね。
後半は一転して走り中心(ホントは何度も撮影の度に停まっていたけど)。吹井ノ浦沿いの自転車道はとても気持ち良かった。その前の櫛田川沿いの道も良かったし、旧参宮街道も悪くなかったな。帰りはちょっと迷走気味だったが、ホントに迷うレベルでは無かったので良し。

今回は前半と後半、違うタイプのポタリングで、メリハリの効いたものになった。とても良いコースだったな。そういうわけで・・・楽しいポタリングでした~。
 

コース概略/自宅→○○線・△△駅~(輪行)~□□線・▽▽駅・◇◇線~(輪行)~上本町駅・近鉄大阪線~(輪行)~近鉄山田線・松阪駅→松阪市・京町→日野町→中町→魚町→殿町→松阪城跡(→本居宣長記念館→歴史民俗資料館)→本町→松阪商人の館→継松寺(岡寺観音)→中町→京町→愛宕町→小津安二郎青春館→垣鼻町→旧参宮道→櫛田川左岸土手→魚見橋(県道60)→櫛田川右岸土手→松阪伊勢自転車道(松名瀬海水浴場→吹井ノ浦→明和町北藤原・伊勢湾岸)→祓川左岸土手→南藤原→下御糸橋→松阪伊勢自転車道(県道705)→大淀→大堀川左岸土手→大淀→国道42側道→大淀→県道510→上野→県道428号→近鉄山田線・明星駅~(輪行)~近鉄大阪線・鶴橋駅~(輪行)~◇◇線・▽▽駅・□□線~(輪行)~○○線・△△駅→自宅

走行距離/41.36km
走行時間/3hr02min
平均速度/13.60km/hr
最高速度/32.10km/hr
Small Bike積算距離/1607km
全Bike積算距離/19814km

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Comments

こんにちは、初めてコメントします。
時々読ませて頂いてましたが、まさか私の近所を走りに来られるとは思いませんでした。
櫛田川や海岸沿いの道は私もよく走るのですが、満足して頂けたようでなんかうれしかったです。
相津峠や仁柿峠も走られたようですが、この辺りには他にもいい峠道がありますよ。ぜひまた走りに来てください。

« 投稿: JUN  2010年11月30日 (火) 21時06分

JUNさん>
初めまして。コメントありがとうございます。
櫛田川や海岸沿いのポタって良いですね。満足しました。

先程、ブログを拝見しました。
伊勢・志摩界隈の山間部のほうは、地図では前から注目していましたが、記事を拝見して、行きたくなりました。来年辺りはそちらに少し注力してみようかと思います。

« 投稿: Katze  2010年11月30日 (火) 23時20分

はじめまして。こんにちは。
初めてお便りします。いつも、っていうか、ほぼ毎日ブログを楽しみに拝見させていただいております。
私もつい最近ですが、ロードバイクを購入しまして、週末はポタリングやライドを楽しんでいます。
Katzeさんのブログを見てると、自分もその地へ行っている様な気分になります。先々週は自宅(生駒市内)から三重県の津まで国道163号線を走ってきました。
これからも、楽しい記事を沢山書いて下さいhappy02
因みに次ぎはどちらに行かれるんですかぁsun

« 投稿: サムライ  2010年12月 2日 (木) 22時42分

サムライさん>
初めまして。
コメントありがとうございます。
いつも見てくださって、ありがとうございます。

私もつい最近ですが、ロードバイクを購入しまして、週末はポタリングやライドを楽しんでいます。>
たぶん、行きたい所がたくさん有って、週末が待ち遠しいのではないかと思います。
これから距離もどんどん伸び、自転車で行くなど今まで考えられなかった所も走るようになって、楽しくなっていくことと思います。

次の記事は、S県のOMHM~NTGとだけ申しておきます。その次は・・・明日走ってきます(^^ゞ

« 投稿: Katze  2010年12月 4日 (土) 12時46分

 






 

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