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2011年4月 3日 (日)

伊賀上野ポタリング 2011.03.19

年月日/2011年3月19日

バイク/GLOBE (SPECIALIZED) Small Bike

目的/伊賀上野の観光スポットを巡る。

ポイント/往復輪行。

内容/
花粉症が本格的に飛ぶようになった3月に入り、今シーズンのMTBでの山サイは前回の「京都南部・山道サイクリング 2011.02.27」で終了。これから花粉の飛散がおさまるまでは、マスクをしても体(呼吸)に負担の少ない小径車での短い距離の観光ポタリングを中心にする。

この日は三重県伊賀市、伊賀上野の観光スポットを巡ることにする。過去に「信楽・伊賀上野サイクリング 2005.10.30」で来た時には、単に辿りついたことで満足し、上野公園内にちょっと入っただけで帰路についてしまった。もっともあの時は完全自走だったので、じっくりと観光している時間が無かった。あとは「大阪~津・伊勢湾サイクリング 2006.04.08」で通過しただけ。自転車絡みではこの程度でたった2回だけしか来ていない。
ただ自転車に乗り始める前、今から10年くらい前に自転車無しで観光をしたことが有る。その頃は寺社仏閣巡りに夢中だったので、上野城は外から見ただけで終わり。伊賀忍者関係は完全スルー。松尾芭蕉絡みの観光スポットは「蓑虫庵」に“休憩目的で”入っただけだった。
そこで今回のポタリングを思いつき、自転車を移動の足としてちゃんと伊賀上野のメインの観光スポットを巡ることにした次第。

冒頭で述べた通り、自走は勿論しないので、自転車は折り畳み小径車のGLOBEを使う。
今年初の使用だ。

自宅を4:55に出発。
最寄り駅まで走り、駅で自転車を輪行袋にパッキング。

20110319ride_1s 列車に乗り込み、幾つかの路線を乗り継いで近鉄大阪線・上本町駅に到着。ここで6:15発の鳥羽行きの快速急行に乗り込む。
折り畳み自転車だと、ドア近くの座席の後ろのスペースに置けるので助かる(右の写真)。
大阪から奈良を抜けて三重へ・・・。

7:24に伊賀神戸駅に到着。
ここで伊賀鉄道に乗り換える。伊賀鉄道の始発終着駅になっている。伊賀鉄道に乗り換えるためは、一旦近鉄の改札口から出てから、伊賀鉄道の切符を買って伊賀鉄道の改札を抜けるというパターン。
17分の待ち合わせだ。ホームの待合室で待っていると、やがて上野市駅方面から列車が到着。・・・あ!これは・・・(下の写真)、「くのいち」。しかもこの目はもしや・・・。

『伊賀鉄道』 (伊賀鉄道のHP

2007年10月1日に近畿日本鉄道(近鉄)の伊賀線を引き継いだ伊賀鉄道株式会社(近鉄の連結子会社)によって運営されている。
伊賀上野駅(JR関西本線と接続)から伊賀神戸駅(近鉄大阪線と接続)までを結んでおり、全線が三重県伊賀市(旧上野市域)にある。

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沿線が忍者の里であることにちなみ、1997年10月から漫画家の松本零士がデザインしたイラストをペイントした「忍者列車」が運転されている。

知らずに見ても松本零士だと分かり過ぎるほど分かる。でも何故松本零士なのか?伊賀と所縁があるのか?それは分からん。
伊賀鉄道には10年程前に一度乗ったことが有るが、勿論その時はこのデザインでは無かった。その時も何か伊賀絡みのデザインがされていたような気もするが、記憶がはっきりしない。

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では中に入るか・・・・。あ・・・。

内装も和装を意識し、忍者に関連するデザインも取り入れている。

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石畳が立体風にペイントされている。

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何気に蛍光灯に手裏剣(下の写真)。

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壁に木目が施されており、気が付かなかったが、ドアが閉まると走る忍者のデザインが出てきたり、カーテンにも忍者風のデザインが有ったりするらしい。
また、(写真には撮り忘れたが)“サイクルトレイン”であることを示す大きなステッカーがドアのガラスに貼ってある。

乗客が電車に自転車を無料で持ち込める「サイクルトレイン」になっている。ただし伊賀上野駅と伊賀神戸駅では持ち込み,持ち出しが出来ない。
自転車を持ち込めるのは、ラッシュ時間帯などを除いた9時ごろから16時ごろまで。二両(通常二両連結)のうち、伊賀神戸駅寄りの車両の連結部付近を自転車を置くスペースとしている。その近くのドアに「サイクルトレイン」と書いたステッカーを張られて自転車の乗車位置を示している。サイクルトレインの時間帯は、無人駅では開けるドアを一番前に限定しているが、自転車を持ち込む乗客がいた場合はほかのドアも開ける。なお、自転車を持ち込んだら事前に運転士に降りる駅を伝えておくこと、並びに4人以上のグループで自転車を持ち込む場合は事前に連絡をするようにとのことである。

なるほど・・・。
・・・ま、僕の場合どのみち伊賀神戸駅で近鉄線と乗り換えするので、行きも帰りも輪行袋にパッキングですな。
7:17に発車して7:46に上野市駅に到着。伊賀市上野の中心地に位置する駅だ。

ノンビリと自転車を組み立て、今日回る場所をあらためて地図で確認。
もう初めに今日回る所を地図で示しておこう。下の地図のが付いている観光スポットを見て回る。周回に近いコースで、上野公園から時計回りに回る予定。

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さて、8:20にようやく出発。

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まずは上野公園・伊賀上野城を目指すので、南口から線路の踏切を横断し、案内板どおりにちょっと進むと、上野公園の敷地に入る(下の写真)。時刻は8:25頃。

『上野公園』

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クルマは公園内に入れないが、自転車はOK。
ただし砂利道が多いので、乗って走る時には滑り易くて油断出来ない。

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最初に「芭蕉翁記念館」の前に来たので、まずはここに入ろう(下の写真)。

『芭蕉翁記念館』 (公式サイト内のページ

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1959年(昭和34年)、部滿之助氏の寄付により俳聖芭蕉翁を顕彰する事業の一つとして建てられた。館内の芭蕉文庫には翁の真蹟をはじめ、近世~現代に至る連歌俳諧に関する資料等が数多く保存されている。
展示室ではこれらの資料を常時展示している。

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自転車を駐輪して中へ。内部は撮影不可なので写真は無し。
この日はこのあとも松尾芭蕉関係の幾つかのスポットに寄るが、関連する書や絵、その他資料などの展示物はここに集められている。

芭蕉翁は1644年(正保元年)、現伊賀市上野赤坂町で生まれた。
幼少より藤堂藩伊賀付の侍大将藤堂新七郎家に仕えて当主良忠(号蝉吟(せんぎん))とともに俳諧を学んだが、蝉吟の没後、奉公を辞めた。
その後江戸に出て俳諧師となり、37歳のとき『桃青門弟独吟二十歌仙』を発刊、俳壇における地位を確立、遂に蕉風俳諧の祖と仰がれる新規の俳風をうちたてたが、1694年(元禄7年)10月12日51歳のとき旅先の大阪でその生涯を閉じた。

松尾芭蕉略歴:
1644年(1歳)伊賀上野赤坂町に誕生。
1662年(19歳)北村季吟に俳諧を学ぶ。
1666年(23歳)藤堂良忠、25歳で死去。
1672年(29歳)『貝おほひ』を上野天満宮に奉納し、江戸へ行く。
1675年(32歳)大阪の西山宗因を歓迎する句会に出席。俳号を「宗房」から「桃青」にあらためる。
1682年(39歳)「芭蕉」の俳号を使い始める。
1684年(41歳)『野ざらし紀行』の旅。
1686年(43歳)「古池や蛙飛こむ水のをと」の句を作る。
1687年(44歳)『笈の小文』の旅。
1688年(45歳)『更科紀行』の旅。
1689年(46歳)『おくのほそ道』の旅。
1691年(48歳)京都の嵯峨落柿舎に滞在。『猿蓑』刊行。
1694年(51歳)伊賀上野無名庵新築。旅の途中、大坂南御堂花屋で死去。

フムフムと、一通り見学して外へ・・・。
自転車を回収し、ちょっとポタリング。

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次いで天守閣へ行こう。通常ルートと近道が有るようだ(あとで分かったが通常ルートは石段)。近道のほうを選択。石畳の坂になっている(下の写真)。

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ここでこの自転車を乗っているほうが何となく奇異に見られそうだったし、このポタリングで無理をする必要は全く無いので・・・てか、普通のマスクをしているので、口呼吸があがるとマスク内がジメジメして気持ち悪くなるので、押し歩き。

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次いで石畳の階段をちょっと降りる。

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この石垣は当時のものだろうか?

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それとも公園として再建された時に造られたのだろうか?

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さて、程無くして上野城の天守閣前に到着(下の写真)。時刻は8:50頃。
先ずは天守閣の周りを一周してみよう。

『上野城』(伊賀上野城,白鳳城) (公式HP

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城のある丘は平清盛の発願によって建立された平楽寺という大寺院があり、西の丘陵には伊賀国守護仁木氏の館が有った。1579年(天正7年)9月、伊勢国の織田信雄が8千兵を率いて伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆の前に敗退し、1581年(天正9年)9月織田信長の援軍をうけ4万兵で伊賀国を平定。織田信雄の家臣である滝川雄利を伊賀国守護とし、滝川雄利は大寺院、丸山城、滝川氏城を改修し伊賀国を支配した。本能寺の変後豊臣政権となると、1584年(天正12年)10月脇坂安治が伊賀国守護となったが、1585年(天正13年)5月に摂津国に移封された。

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近世城郭として上野城が築かれたのは、1585年(天正13年)大和郡山から移封された筒井定次による。天下統一を進める豊臣秀吉は大坂城を中心とする大名配置を行い、大和郡山には異父弟羽柴秀長をおいて大和・和泉・紀伊三ケ国の大守としたため、郡山の定次はその外側を守る形で伊賀国への国替えとなったのである。定次は伊賀に移ると旧伊賀守護仁木氏の城館跡(後の西之丸の地)に仮館を建て、「天正伊賀の乱」で焼け落ちた平楽寺・薬師寺跡の高丘に新しく城を築いた。

「天正伊賀の乱」
1578年(天正6年)に伊勢の国司北畠信雄(織田信長の二男 織田信雄が北畠の養子になり家督を継承)は丸山城を基点に伊賀攻略を企てたが、伊賀衆の攻撃にあって撤退した。1579年(天正7年)仕切りなおして北畠信雄が伊賀に攻め込むが、伊賀衆の抵抗にあって敗退(第一次天正伊賀の乱)。これを聞いた織田信長は激怒して自ら出馬を決意し、1581年(天正9年)5万の大軍を率いて伊賀に進軍、伊賀全土を焼き払って大人子どもに関わらず殺戮を繰り返した。伊賀衆は最後まで抵抗を続けたが、和議が成立して降伏。伊賀地域が歴史上唯一壊滅的な打撃を受けた乱で、800年の歴史を持つ伊賀地域の荘園制度が終焉し、忍者は諸国に離散した(第二次天正伊賀の乱)。

『伊水温故』に「迅ニ上野之駅ニ入来シ仁木友梅ノ舗地ヲ囲、仮ニ草館ヲ造立シ屡此ニ幽栖ス。而後数千ノ役夫ヲ催、平楽寺・薬師寺二ケ場ノ荒地ヲ点シ、文禄年中ニ一城ヲ造畢ス。三層ノ高楼ヨリ内外ノ曲輪要害太厳重也」と有り、城は高丘の頂上を本丸とし、東寄りに三層の天守閣を建造、本丸の東側丘陵とは堀切で区切り、西に二之丸、北の山下に三之丸を配し、三之丸の北谷口を大手とした。
城下町は古くから開けた小田町が中心で、小田から南に通じた通りと、城の南、農人町から西に通ずる通りが想定されている。
1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起こると筒井定次は東軍の徳川家康方につき、会津征伐に参戦。上野城は筒井玄蕃が留守居役としたが、上野城を西軍の摂津国高槻城主新庄直頼、直定父子に上野城が攻撃され、筒井玄蕃は戦わず城を明け渡し高野山に逃亡した。筒井定次は徳川家康の許しを得て直ちに軍を引き返し、城を再奪取し事なきを得た。
関ヶ原の戦いの戦後、新庄直頼は改易され筒井定次は本領安堵、伊賀上野藩を立藩した。しかし徳川家康は大坂城を包囲する必要に迫られ、彦根城同様重要な地点である伊賀上野城を強固にすべく、徳川家康は筒井定次をかねてから不行状で島清興などの重臣に多く出奔され失策の多いのを理由に、1608年(慶長13年)6月に領地没収、磐城平城鳥居忠政のもとに預けた(筒井騒動)。

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1608年(慶長13年)8月、徳川家康は信任厚い藤堂高虎に、伊賀の国10萬石・伊勢の内10萬石、伊予の内2万石合わせて22萬石を与えた。 高虎が伊予国宇和島城から伊賀,伊勢に移封されたのは、家康の信任が厚かったことと、築城の名手でもあり、来るべく大坂との決戦に備えたためであった。筒井定次の城は大坂城の出城として大坂を守る形をとっていたのに対し、高虎の城は大坂を攻撃するための城と全く逆の立場の城とし、1611年(慶長16年)正月、上野城を有事の根城として本丸を西に拡張、高さ約30メートルという高石垣をめぐらして南を大手とした。
建設中の五層の天守閣は、1612年(慶長17年)9月2日、当地を襲った大暴風で倒壊したが、外郭には10棟の櫓(二重櫓二棟、一重櫓八棟)と長さ21間(約40m)という巨大な渡櫓(多聞)をのせた東西の両大手門や御殿などが建設された。
1614年(慶長19年)の大坂冬の陣、1615年(元和元年)の夏の陣と家康方の勝利に終わり、その後幕府は諸大名に城普請を厳しく禁止したため、上野城の天守閣が再建されることがなかった。一国一城制では上野城は伊賀の国の城として認められた。 その後10萬石の加増を受けて32萬3千950石余の大藩として、明治まで城代を置いて存続した。

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明治維新後、他の城と同様に伊賀上野城も石垣上の構造物の多くが取り壊された。1896年(明治29年)伊賀出身の実業家田中善助が、城周辺の整備を行って公園として住民の憩いの空間とした。1935年(昭和10年)、衆議院議員であった川崎克の私財により模擬天守が建設され、現在の上野城を再建した。1967年(昭和42年)12月27日に国の史跡に指定された。
ちなみに、1980年(昭和55年)4月に公開された映画『影武者』の撮影現場に用いられた。2006年(平成18年)4月6日には日本100名城(47番)に選定された。
天守閣の城内には藤堂藩ゆかりの武具や文化産業資料等が展示されている。

なるほど~、ではこの天守閣は再建ではなく、初めての天守閣というわけか~。
ただ、天守閣の石垣部分は藤堂高虎時代のものとのことだ。

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天守閣の周りを一通り回ると、内堀が有る北と西の方角が開けていて展望をのぞめる(下の写真)。

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かつて櫓台が有った所のようだ。

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内堀は天守閣の北から西に掘られている。

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北西の方角の眺め(下の写真)。

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京都,滋賀,三重の三県が接する一帯に広がる山々と、その麓の三重県側の様子がよく見える。

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北のやや東の方角、上野公園内に見える変わった屋根(下の写真)。「俳聖殿」の屋根だな。

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西のほうへ回ってみる。

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こちらも遠くに山並み。そして麓に広がる平野。

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最近あの辺りを走っていないな~~。

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すぐ近くに上野高校のグランドが有る(下の写真)。野球部かサッカー部かと思える部活動の生徒の声がよく聞こえる。

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大きな松の枝の下をくぐりながらノンビリとポタリング。

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さて、天守閣の周りを一めぐりしたので、天守閣内の展示室に入ってみよう。自転車を石垣の下に駐輪し、石段を上がって中へ・・・。

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門をくぐると受付。入場料(入城料?)を払って中へ。
藤堂高虎の人形がお出迎え(下の写真)。

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靴を脱いで内部の展示室へ。先ずは1Fからだ。

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陶器が展示されている。「伊賀焼」という、この伊賀上野の陶器が有るらしい。

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伊賀焼(いがやき)は三重県伊賀市(旧阿山町)にて焼かれている陶器及び炻器。中世から始まったといわれる日本有数の古陶で、日本六古窯に数えられる。
伊賀焼は信楽・常滑・備前・丹波などの焼物と類似したものがあり、特に信楽焼とは地理的にも隣接し、土壌などの条件も同じ点から焼物の分類は困難なものである。
伊賀焼がいつ頃から焼かれたかは明らかではなく、近年は鎌倉時代ごろと年代判定された伊賀焼もみられるが、古くは伊賀焼。信楽焼の分類が不明確であり、伊賀地方で焼かれた物でも信楽焼と言われていた物も有ったであろうことからみても、焼物の年代判定に比較して名称の曖昧さは覆い隠せない。桃山時代頃になって伊賀焼・信楽焼が分類されてきたのである。
一般に伊賀焼の歴史は慶長(1596~1614)頃の筒井伊賀より語られる。次いで藤堂伊賀(遠州伊賀も含む)であり、江戸時代初期(寛永年間1624~1643)に入って衰退し、日用雑貨が焼かれていた。約百年余りの沈滞後、丸柱において復興伊賀が焼かれるようになったが、古伊賀を模倣したばかりか、他所の製造方法をも模倣したため、やはり沈滞して日用雑貨を焼いていた。明治に入り知識人の間に伊賀焼に対する研究・製造が行われ、現在は広い層の人々に愛好され、受け継がれている。
(説明文より)

ちょっと後ろ向きの説明分だな・・・↑。
伊賀焼振興協同組合のHP(ここ)のもっとアピール度の高い説明文。↓

伊賀焼の歴史は古く、奈良時代までさかのぼる。 平安時代末期から鎌倉時代の初めごろに本格的なやきものの産地として発展し、室町時代の終わりから桃山時代にかけて侘び茶が広まると、個性的な伊賀焼は茶の道具として注目されるようになった。主として伊賀國を治めた筒井定次や藤堂高虎が茶人であったことから、伊賀焼は茶の湯のセンスや心遣いを巧みに取り入れていきた。
土の風合いと、炎による変化が生み出す自然な「景色」。整った形に手を加えることによって生まれる、より自由でおおらかで生き生きとした形…「破調の美」。伊賀焼は、日本人だけが見出し、敏感に受け止めることができるやきものの美しさを最も純粋に表している。
その後、伊賀焼は江戸時代中期に一時衰退したが、18世紀中ごろに京都や瀬戸から技術者を招き、伊賀の土を活かした日用雑器の生産が行われるようになり、現代の基礎が作られた。現在の伊賀焼は伊賀市(阿山地区)の丸柱を中心に造られている。製品は土鍋や行平、食器や茶陶など、多岐にわたり、また、伝統を生かした新製品の開発も行われている。
伊賀の豊かな自然の中で、こつこつと堅実に作られ続けてきた伊賀焼には、茶陶から受け継がれた、使う人への心遣いと、良いものを創りつづけていきたいという伊賀の心意気が息づいている。
伊賀焼振興協同組合のHPより)

さらにアピール度の高い説明文。↓

素朴で、無骨で、頑固者。しかし愛すべき伊賀焼たち。
伝統を守り続けてきた強さと、使う人へのやさしさを秘めた伊賀焼の特徴を紹介すると・・・。

  • 無釉焼締めの肌合い・・・
    伊賀の大地そのままの小石まじりで一見無骨な面構え。
    しかし、料理を盛り、酒を注げば見映えよく、味までも引き立てる。素朴でやさしい恥ずかしがり屋。
  • 山割れ・ゆがみ・耳・・・
    大きな山割れ、素朴なゆがみ、ヘラ目を施し、「耳」を付ける。整った形に手を加えた破調の美。
    より自由でおおらかな日本人独自の美意識を秘めて。
  • 火色・こげ・・・
    炎であぶられた色白の顔が燃え盛るその色を映して赤く染まる。あるいは焦げる。
    ビードロあり、こげあり、火色あり、炎が描く千変万化のこの表情。
  • 灰かぶり・焼締め・ビードロ・・・
    降りかかった薪の灰が、高温の炎の中で溶かされる。あるいは流れて緑色の雫となる。すさまじい炎の力に飾られた無釉焼締めのつわものの顔。

伊賀焼振興協同組合のHPより)

推してきますな~~。
ならば、展示されている伊賀焼を鑑賞してみよう。

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藤堂伊賀 (上の写真の上段) 水さし
筒井氏の後を受けた藤堂氏の二代大学頭高次が寛永12年に京都から陶工を招いて焼いたものをいう。

筒井伊賀 (上の写真の左中段)
天正年間 大和郡山から移封してきた筒井定次が焼かしたもので、筒井氏の天守閣の有った地から出土したものをいう。

遠州伊賀 (上の写真の右中段) 油壺
藤堂家と親しかった小堀遠州が指導して作った焼物を特に遠州伊賀という。
淡物の焼物で、茶道に用いられた。

四角火鉢 (上の写真の左下段) と 銘々皿 (上の写真の右下段)
小川得斎(天保年間以後に活躍した陶工)の作品。

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松風庵一志(銘山里) (上の写真の上段と左中段)
藤堂藩家老、藤堂造酒丞廣旧(ひろさと)のち藤堂豊前廣旧と更名は茶湯に通じ、猶義堂または松風庵を設け、文政頃(1818~1830)上野城二ノ丸に有った屋敷内で窯を造り、主に楽焼きに類するものを焼き箆(へら)で一志と書いた。

蓮月茶碗 (上の写真の右中段と下段)
幕末期の女流歌人、太田垣蓮月尼の作品、藤堂新七郎の娘で、知恩院寺侍太田垣伴左衛門の養女となり、名を誠(のぶ)という。度々伊賀を訪れて滞在、数多くの作品が伝わる。

下の写真2枚に写っている数々の焼き物は現代に受け継がれた伊賀焼。

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三重県知事賞受賞作品などが展示されている。
昔のものと比較してみるのも良いだろう。

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次は武具の展示を見てみよう。
喉輪だ(下の写真)。

喉輪(のどわ)
喉を防護する装具で、弦月形の鉄輪に蝙蝠(こうもり)付で小札板2枚の垂れを付けたもので、南北朝時代から使用された。

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更に防御が行き届いた面具も有る(下の写真)。

面具(めんぐ)
顔面を保護する装具で、面の形によって半首,頬当,総面などと呼ばれる。

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次いで兜の類い(下の写真)。

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時代によって、用途によって、様々な物が有る。

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鉄錆地六十二間筋兜 (上の写真)
第十一代藩主藤堂高猷公所用

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金箔押菖蒲前立頭形兜 (上の写真)

陣笠 (下の写真の上段)

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提灯型兜 (上の写真の左の2段目)

阿古陀鉄一枚張兜 (上の写真の左の3段目)

鍬型前立頭兜(上の写真の右中段)

鉄錆地18間頭形兜 (上の写真の下段)

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唐冠形兜 (上の写真)
豊臣秀吉より拝領。

現代に作られた兜も有る(下の写真の2枚)。

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西洋風の感じのする物も有る。
端午の節句の五月人形に使えそうな物も・・・と言ったら作者に失礼だな。

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次は甲冑と具足ですな(下の写真)。ガラスに照明が反射している部分が見えなくなっていますが・・・(^^ゞ

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下の写真は具足類。

大阪冬の陣の際に島川専助が着用したもの  (下の写真の左)。
島川 専助は藤堂高虎に仕えた200石の侍。

南蛮胴具足  (下の写真の中央)。

日根の甲冑  (下の写真の右)。
試し仕打ちをした具足。胴に弾痕が有る。

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そしてまた鎧。

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鎖帷子ですな(下の写真)。

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古墳時代の甲冑も有る(下の写真)。

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武器関係の展示が有る。
大筒,火縄銃,管打銃,鉄砲弾丸玉型抜,馬剣(手裏剣),鎖鎌等々が並んでいる(下の写真)。

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大筒 (上の写真の上段と下の写真)
紙製品筒先に小笠原家紋(三階菱)を附している。

小笠原家
清和源氏の河内源氏の流れをくみ、室町時代以降、武家社会で有職故実の中心的存在となり家の伝統を継承していったことから、時の幕府からも礼典や武芸の事柄においては重用された。小笠原流の起源である。

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十手(下の写真の上段)

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大阪冬の陣・夏の陣に出陣した島川専助の刀剣(上の写真の2段目)と刀槍(上の写真の下段)

脇差(下の写真の上段)

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古刀(下の写真)

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重箱(下の写真)
久居藤堂家の家紋入り

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乗馬鞍(下の写真)
藤堂藩公が使用。

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商家の籠(下の写真)

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上野城小天守閣の鯱(下の写真)

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色々有るな。1階の展示物を見終わった頃、ふと上を見ると・・・。
忍者だ!(下の写真)

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2階へ上がる階段の踊り場から1階を見る(下の写真)。

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また忍者だ!(下の写真)。

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何年間動かずにここにいるんだろうか?我慢強いな。アハハ。

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さて、2階へ。赤じゅうたんの広い階段で登る(下の写真の左上)。
2階にも展示物が並んでいる(下の写真の右上と中段,下段)。

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藤堂藩蔦紋入りの陣笠(下の写真)。

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藤堂新七郎家酢漿草紋入りの陣笠(上の写真の左下)。

ここから当時の武家の生活用品関連の展示が続く。

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藤堂家道中箪笥(上の写真)

書見台(下の写真の上段)

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藤堂家姫君愛用の琴(上の写真の下段)
1679年(延宝7年)の作

袋入懐中鏡(下の写真の上段と中段右)

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化粧台(上の写真の右下)

大名膳(下の写真の左上)と二の膳(下の写真の中段)

大食篭(下の写真の右上)

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重箱(上の写真の下段)

他にも食生活用具がたくさん(下の写真)。

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小皿や銘々皿もたくさん陳列してある(下の写真)。

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提灯(下の写真)
藤堂家の家紋入り

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手拭掛(下の写真)

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藤堂高虎公坐像(下の写真)
前田呉耕画

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藤堂 高虎
戦国時代から安土桃山時代、江戸時代前期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。
何度も主君を変えた戦国武将として知られる。それは彼自身の「武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ」という発言に表れている。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。

1556年(弘治2年)1月6日、近江犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄高則は早世)。藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって次第に没落し高虎が生まれた頃には一農民と変わらない状態になっていた。幼名を与吉と名乗った。
はじめ近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕え、1570年(元亀元年)の姉川の戦いに参戦して武功を挙げ、長政から感状を受ける。1573年(天正元年)に小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。

やがて近江を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きせず、1576年(天正4年)に信長の重臣羽柴秀吉の弟・羽柴秀長(豊臣秀長)に仕えて3,000石の所領を与えられた。秀長のもとでは中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで抜群の戦功を挙げたため、2,000石を加増された。後に秀吉から5,000石をさらに加増され、1万石の大名となる。
1585年(天正13年)の紀州征伐に従軍し、秀吉の命令で雑賀党の首領であった鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われる。戦後は紀伊粉河に5,000石を与えられ、猿岡山城、和歌山城の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。また紀伊においては、方広寺大仏殿建設のための材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられていた。1587年(天正15年)の九州の役では根白坂の戦いで島津軍に攻められた味方を救援する活躍を見せて2万石に加増される。この頃、秀吉の推挙を受けて正五位下佐渡守に叙任する。
1591年(天正19年)に秀長が死去すると、甥で養子の豊臣秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。1595年(文禄4年)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予板島(現在の宇和島市)7万石の大名となる。この時、秀吉から日本丸という軍艦を拝領したとされる。
1597年(慶長2年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、鳴梁海戦と南原城の戦いにも参加し、帰国後に加増されて8万石となる。この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。朝鮮の官僚姜沆を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。

1598年(慶長3年)8月の秀吉の死去直前から徳川家康に急接近する。豊臣氏の家臣団が武断派、文治派に分裂すると、高虎は武断派の諸将に先んじて徳川家康側に与した。
1600年(慶長5年)、家康による会津征伐に従軍し、その後の織田秀信が守る岐阜城攻めに参戦する(岐阜城の戦い)。9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継隊と死闘を演じた。また、留守中の伊予における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している(毛利輝元の四国出兵)。更に脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。戦後、これらの軍功により家康から伊予今治20万石に加増されている。
その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、1608年(慶長13年)に伊賀上野藩主筒井定次の改易と伊勢津藩主富田信高の伊予宇和島藩への転封で伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、伊勢津藩主となる。家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。
1614年(慶長19年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、一族の藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出している。戦後、その功績により32万石に加増され、同年閏6月には従四位下に昇任した。しかし、この戦いで独断専行を行った家臣の渡辺了と衝突、決別している。
家康死去の際には枕元に侍ることを許された。家康没後は2代将軍徳川秀忠に仕え、1620年(元和6年)に秀忠の5女和子が入内する際には自ら志願して露払い役を務め、宮中の和子入内反対派公家の前で「和子姫が入内できなかった場合は責任をとり御所で切腹する」と言い放ち、強引な手段で押し切ったという(およつ御寮人事件)。1627年(寛永4年)には自分の敷地内に上野東照宮を建立している。
一方で内政にも取り組み、上野城と津城の城下町建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。また、幕府の命令で会津藩と高松藩、熊本藩の後見を務め、家臣を派遣して藩政を執り行った。
晩年には眼病を患って失明している。1630年(寛永7年)10月5日に死去。享年75。
後を長男の高次が継いだ。養子の高吉は高次の家臣として仕え、後に伊賀名張に転封、分家を興した(名張藤堂家)。
Wikipediaより)

今放送中の大河ドラマ「江」にも絡んできそうな人ですな。
さて、2階は結構展望が有る(下の写真)。

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南東の方角の眺め(下の写真)。

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遠くに見えるのは、青山高原の南の布引山地の山々かな?

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城下の家々の屋根がくっきり。

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さて、最上階へ登る急階段が有る(下の写真)。

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行ってみるか・・・。
あ!くのいち!今度は動いている。

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あ!今度はちびっこ忍者。

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なんてね。どうやら観光客相手にやっている忍者コスプレが有るらしい。この後もたまに見かけることになる。大抵は子供ばかりですが・・・。
ちなみに犬用も有るらしい。忍者犬!この日は見かけなかったが、ネット上には情報有り。
・・・・さて、急階段を登って最上階に上がる(下の写真)。ここは殆ど展示品が無い。

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天井には書画(下の写真)。

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三階は基本的に展望台の役割をしている。城の四方が見える。

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南西の方角の眺め(下の写真)。

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市街地と田園地帯がくっきりと分かれている感じがする。
遠くのほうに大和高原・宇陀の山並みが見える。

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西の方角(下の写真)。

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月ヶ瀬や南山城の山々の方角だ。

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さらに少し北西の方角(下の写真)。

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御斎峠とかが有る、滋賀県との県境付近の山々が遠くに見える。

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山の向こうは信楽でしょうな。

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さらに北の方角へ回り込む(下の写真)。

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北に広がる市街地と滋賀県との境の山々が見える。

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市の北側は山々が割と近い。

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城下の北の街並みがよく見える(下の写真)。

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山の向こうは甲賀の里ですな。

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伊賀と甲賀は山並みを一つ隔てて結構近い。

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今度は南東の方角(下の写真)。

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南寄りのほうが平野部は広いな。
南の方角(下の写真)。

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こちらのほうが、街が遠くまで広がっている感じ。

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山並みが見えるのはかなり遠くのほうだ。

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城下の様子がよく分かる。

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街の中にぽっかりと浮かんでいる緑の丘は、上野森林公園かな?(下の写真)

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さて、全てを見たので天守閣を出る。
外に出て、まだ咲いている枝垂れ梅の花にふと気が付く(下の写真)。

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晩冬~初春を名残惜しんでいるかのようだ。

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この日のちょっと前まで寒かったのだが、この日は結構暖かい。

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梅も終わりに近いな(この日は3月19日ですので・・・4月ではありません(^^ゞ)

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天守閣を後にし、先程屋根が見えていた「俳聖殿」へ・・・。

『俳聖殿』(下の写真)

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芭蕉翁の旅姿をあらわす聖堂で、1942年(昭和17年)芭蕉翁生誕300年を記念して故川崎克氏が私費を投じて建設したもの。上の丸い屋根は旅笠、下の八角形の廂(ひさし)は袈裟(けさ)、それを支える柱は行脚する翁の杖、「俳聖殿」の木額は顔をアレンジしている。

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過去の「信楽・伊賀上野サイクリング 2005.10.30」では、上野公園で撮った唯一の写真が、この「俳聖殿」とロードバイクとのツーショットだったな。あの頃から比べると、今は桁違いに写真が多くなったものだ・・・(^^ゞ

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堂のなかには芸術院会員長谷川栄作氏が原像をつくり、川崎克氏が焼成した伊賀焼の芭蕉翁瞑想像を安置している。

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中には入れません。

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次はすぐ隣の「伊賀流忍者博物館」に入ってみよう。ここは入ったことが無い。初めてだ。
自転車を駐輪し、入場券を購入して中へ・・・。

『伊賀流忍者博物館』 (公式HP

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最初に「伊賀流忍者屋敷」(上の写真の茅葺の建物)に案内される。

「伊賀流忍者屋敷」

火薬の製造技術が敵方のスパイに盗まれないために、典型的な忍者屋敷では、わなを仕掛けたり、からくり廊下を使って防御していたりした。忍者屋敷は農民の住まいそのもので、そこに「どんでん返し」「抜け道」「隠し戸」「刀隠し」などの仕掛け・からくりを備えていた。
ここでは、くノ一(女忍者)が屋敷を案内し、室内に仕掛けられた数々の仕掛け・からくりを実演している。

勝手に屋敷内をウロウロと見てまわることは出来ない。それはそうだ。その程度で見て分かったら忍者屋敷ではないからな。何人かのお客さんとまとめて案内される。子供連れの二組の家族集団に僕一人が混じって説明を受ける。当然集団の一番後ろから遠慮がちにそっとだが・・・。ちょっと写真とかを撮る(撮れる)雰囲気ではなかったので、回しっ放しのビデオからちょこっと一部を雰囲気だけでも・・・↓

・・・ま、こんな感じで・・・。勿論、もっとたくさんの仕掛けを長く説明してもらえる。
忍者屋敷以外は普通に見学できる。次いで、地下の「忍者体験館」へ・・・(下の写真)。

「忍術体験館」

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ミニシアターの壁に設置されたビデオ画面で、伊賀忍者が城へ密かに潜入、そして脱出する様子が解説されている。また、忍者が当時使用された本物の手裏剣を含め、400点以上の忍具が展示されている。

その展示物を見てみよう。

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七方出(しちほうで) (上の写真)
忍者は敵地に潜入する際に、正体と目的を隠すために変装した。変装は「虚無僧」「出家」「山伏」「商人」「放下師(曲芸師)」「猿楽師」「常の形(農民や武士)」の七つとされ、忍術伝書では「七方出で立ちの事」または「七化(しちばけ)」と呼ばれた。

忍者が潜入に使う道具類の数々が展示されている(下の写真)。

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水蜘蛛 (上の写真)
よく知られている忍者の道具の一つ。
自然の湿地などを利用したお城の沼堀は、歩くことも泳ぐことも出来ず、水堀や空堀よりも渡りにくい。水蜘蛛は足にかかる重さを分散して泥の上を渡れるようにしたもの。
その名前から水上歩行道具と誤解され易いが、水の上は歩けない。

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錣(しころ) (上の写真)
両刃ののこぎりのような物。

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五寸釘 (上の写真)
石垣を登るときに使う。手裏剣の代わりにもなる。

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登器(とうき) (上の写真)
縄梯子や釜を付けた物等。

鍵を開けるための道具(下の写真)。

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くろろ鍵 (上の写真の上段)
土蔵の錠前を開ける際に使われる。

枢鍵(からくりかぎ)・万能鍵 (上の写真の下段)
数種類を組み合わせて使用した。

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鉤縄 (上の写真の左上)
高い所に鉤を投げかけて塀などを登る、敵を縛る、敵の足をすくうなど、工夫次第で幅広く使うことが出来る。

忍び鎌 (上の写真の右上)
逆茂木の縄を切ったり、鳴子の縄を切ったりする。

足袋・草履・忍び燭台 (上の写真の下段)

次は戦闘時に使われた物(下の写真)

仕込杖 (下の写真の上段)
関所を越えるために旅人が持つ杖や僧に変装し錫杖に剣を仕込んだもの。
鎖や分銅、眼潰し、槍などを仕込んだものもある。

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胸当て (上の写真の左下)
忍者が鉄砲よけに着用した胸当てで、いわゆる当時の防弾チョッキ。

火打鎌・小鎌 (上の写真の右下)
火打鎌は振って火打石にあてて火をおこす道具。小鎌は携帯用の鎌。

鎖帷子 (下の写真)

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忍び甲冑(下の写真)
戦時中に敵陣に忍び込む時に着用する。折り畳みできる。

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忍者刀(下の写真)
侍の刀とはやや違う。
特に鞘も使い、先がとがっているので武器になるし、長い紐は、張ることにより敵を転ばせることにも使われる。

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伊賀忍者は火薬を使うことを得意としているのせいか、鉄砲も使う(下の写真の上段)。

百雷銃 (下の写真の上段の巨大な爆竹の様なもの)
爆竹に類似した花火。連続的に轟音を発する。

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大筒も有る(上の写真の下段)。

大筒 (上の写真の下段)
忍者は大口径の大筒や長鉄砲、木砲など種々の鉄砲を開発し、巧みに利用した。
特に木砲は鉄や鉛の弾丸を撃つより、鉄片や小石を詰めて撃ちかけるので、一度に多数の敵を殺傷するのに適した。
また簡単に安価で出来、運搬しやすく、壊れても惜しくないという利点が有った。

手甲鉤 (下の写真)
敵の刀を奪ったり、攻撃に使用。

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手鉤(上の写真の下段)
高所に登ると気に引っかけて体を支えた。
いざという時の武器にもなる。

分銅つぶて (下の写真の左)
分銅型のつぶて。
他に縁を利用して釘の頭を出し、真ん中の穴に引っかけて釘を抜くことにも利用した。

手裏剣 (下の写真の右の上)
暗殺用の武器で、刃にトリカブトの毒を塗るのが定法。

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火車剣 (上の写真の右の下)
手裏剣に火縄を巻きつけ、中心に火薬を盛る。照明用や放火用に使用する。

手裏剣にも色々な種類が有るな(下の写真)。

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投げ方も色々有るようだ。八相,逆打ち,横打ち,座打ち,陰中,十字打ち,寝打ち・・・等々。それらの投げ方の図解がされている(写真は無し)。名まえだけで想像がつくものも有るが、全く想像付かない名まえの投げ方も有るだろう。

鎖鎌 (下の写真)
振り回して敵を威嚇し、撹乱した。刺したり切ったりもした。

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双刃鎌 (下の写真)
両刃になっているで、引いて切るだけでなく、棟刃のほうで押して切ることも出来る。刃は約12cm、柄は約15cmで、折り畳むことが出来、見つかっても農具なので、疑われることはない。

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吹き矢筒 (下の写真)
吹き矢は、先端に毒を塗り、主に暗殺用に使用。
忍者は、普通の笛の内側に張り付くように紙を入れ、穴をふさいで吹き矢の筒にした。

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護身具用の武器も有る(下の写真)。

万力鎖 (下の写真)
鎖の両側に分銅を付けた護身具。

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まきびし (下の写真)
ひしには木びし、天然びし、鉄びしの3種類が有り、追われた時に敵を狭い通路に導き、ひしを撒き、敵がひしを踏んでひるんでいる隙に、逃げた。

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上の写真の左下は拡大写真。草履を履いていてこれを踏んだら痛そうですな~。

「伊賀流忍術」
伊賀流忍者は呪術を得意としていた。伊賀は比較的都から近いにもかかわらず、山に囲まれた盆地であったことから亡命者が多く、その亡命者の中には、物部氏を祖先とする一族や渡来系民族の服部氏など呪術や奇術を得意とした一族がいた(ここで言う呪術は催眠術や手品のような物も含む)。
代表的な呪術は九字護身法(昔の忍術映画などで忍者が印を結んでいる場面を思い浮かべて欲しい)。臨兵闘者皆陣列在前(りんひょうとうしゃかいじんれつざいぜん)と、主に両手で印を結ぶ/右人差し指・中指を刀に見立て、九字を切った。九字護身法は「印明護身法」(「浄三業」「蓮華印」など5種類の印を結び呪文を唱える)や「十字の秘術」(天・龍・虎など十の文字を手のひらに書いて、飲んだり握ったりする)と供に用いられた。いずれも精神統一を促し、「大丈夫」と強烈な自己暗示をかけていた。
もう一つ伊賀忍者は火術を得意とした。映画やマンガにおいて、ピンチに陥った忍者が火薬玉を爆発させて煙とともに消える(逃げる)場面を思い浮かべて欲しい。このような火術は実際の伊賀忍者が一番得意としていた。
火薬玉のほかには、火矢や狼煙、ほうり火矢や埋め火、さらには鉄砲など火を操るとされていた。これは、火薬の材料が周囲から入手しやすい土地柄、火薬に詳しい人物が多かったために発達したようである。火薬の調合方法が秘伝中の秘伝(家伝)であった。
(公式HPの参考ページ→http://iganinja.jp/about/igaryu.html
(Wikipedia→ここ

さて、地下から出ると、次は地上に有る「忍者伝承館」へ・・・。

「忍者伝承館」

暗号、九字法、人相学などの忍術を、現代の生活や道具と比較して解説している。
また、忍者の古文書の内容が科学的に解説され、忍者の日常生活や知恵についての事例も紹介されている。

火薬の調合の用具と説明がされている。
普段使っていた煙草盆やキセルも展示されている。

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衣類関係。

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弁当箱や水筒など。

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上の写真に写っている、下のほうに置かれている物は、左が携帯用提灯で、真ん中と右がろうそく立てだ。
弁当箱がなんか良いな(下の写真)。今使ってもオシャレかもしれない。

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五色米 (下の写真の上段)
忍者の仲間同士だけに分かる伝達法として、米を青、黄、赤、黒、紫に染め、その組み合わせで暗号を作った。

忍者&色とくれば、赤影,白影,青影を思い浮かべたり、さらにひねって連想し、秘密戦隊ゴレンジャーとか~~(世代が分かるな)。

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狼煙筒 (上の写真の中段左)
腐敗乾燥させた日本オオカミのフンを火薬に混ぜて、火をおこし、煙を出して遠くに合図をした。
オオカミの糞は狼煙を真っすぐ上げるのに利用された。

龕燈 (上の写真の中段右)
灯が一方向に当たって、周りに明かりが散らないという利点を持つ。
桶状の筒の内部は、鉄の輪を二重にしたものがはめ込まれており、その一方に燭台が付いている。この二重の輪の作用が、下に向けても横に向けても燭台が常に上を向く仕組みとなり、常にろうそくを垂直に保てるようになっている。

田下駄と水蜘蛛(上の写真の下段)

法螺貝も有る(下の写真)。

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方位磁石も使っていた(下の写真)。

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香時計(下の写真)
時間には「定時法」と「不定時法」が有る。
定時法は、我々が日常に使っている一日を24時間に等分割し、時間の長さは季節のよらず一定である。
不定時法とは、夜明けから日暮れまでの時間を6等分する時間法で、江戸時代以前に使われていた。従って季節によって変動する。
その不便さを無くすために、当時香時計が使われていた。灰の上に、香で直線を折り曲げた規則正しい幾何模様を描いておく。その一端に火をつけ、燃え進んだ長さで時刻を計った。

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上の写真と僕の文章では上手く説明できないが、“香時計”でネット画像検索をすると、上の写真の物によく似た物が引っ掛かるので、それらのサイトを見ると使われ方が分かると思う。木型やくし型ならし板といった物もその使い方が分かるだろう。

「伊賀忍者の歴史」
忍術を使う人を忍者と呼ぶが、忍術の起源には多くの説があり、他の武術のように始祖などもはっきりしていない。一説には、聖徳太子に仕えた大伴細入という人物が、その働きから最初の忍者であるともいわれているが、史料が少ないために伝説の域を脱せないのが現状で、伊賀の場合は鎌倉時代に荘園の中で発生した「悪党」に起源を求めるのが現実的な説であろう。
伊賀は奈良時代以降、東大寺や興福寺などの多くの荘園が有った。悪党とは、もともと土着している地主のような人の中で、寺院や貴族の領地である荘園に対して反抗的な行動をとった人達のことである。彼らは荘園領主に対して奇襲や撹乱などの戦法を駆使した。悪党の中には修験道と関わりをもった者もおり、そこで山伏の戦法を学び、先達として各地を巡る際に情報収集を行ったことも考えられる。有名な百地氏ももともとは悪党であった大江氏の一派といわれており、実際に大江氏の一族が大峰山で修行したという記録が残っている。加えて伊賀周辺には、霊山や笠置山、赤目四十八滝など修験に関わる地が多く、役行者信仰も盛んであった。
室町時代に入って荘園を経営する寺社勢力が衰微するにつれ、悪党の活動は徐々に消失していったが、今度はその血を引いた「地侍」が頭角を現すようになる。戦国時代、彼らは古記録に「伊賀衆」として登場し、周辺各地の戦国大名に従軍して、傭兵として京都や奈良、滋賀、和歌山へ出陣していたことが分かっており、その戦術は夜襲や密かに忍び入り火を放つことが中心であると記されている。この頃より伊賀衆は「忍び」と呼ばれるようになる。
江戸時代の藤堂藩の治世になると、忍びと呼ばれた人々の子孫は「伊賀者」として、参勤交代の際の藩主の護衛役や国内の情報収集にあたったり、または「無足人」という農兵として帯刀を許され、各村の自治を任されたりした。
このように伊賀流忍術の根本は、修験山伏の使った術が悪党や地侍へと引き継がれたもので、それが時代と共に変化し、江戸時代になって伝書にあるような広義の忍術としてまとめられたと考えられる。俗に忍術の百科事典といわれる『萬川集海』を著した藤林氏も地侍の家系であったが、江戸時代になり伊賀者として採用されてからは上野城下町に住まいを移した。他に、商人などに職を変えた忍びの末裔も、城下町には存在したとみられている。
(公式HPの参考ページ→http://iganinja.jp/about/ninja.html

じっくりと見学したので、伊賀流忍者博物館を出る。

さて、上野公園から出て次の観光スポットに行くか・・・。自転車を回収し、砂利道を押し歩きながら公園の出入口へノンビリと向かう(下の写真)。

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上野公園の東に位置する、だんじり会館へ・・・(あらためて下の地図参照)。

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だんじり会館に到着(下の写真)。時刻は10:35頃。

『だんじり会館』 (案内サイト

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3基のだんじりと鬼行列を常設展示し、上野天神祭の臨場感を感じることができるほか、大迫力の300インチ三面マルチスクリーンとステレオ音響で表情豊かな上野の四季を紹介している。

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駐輪して中に入ると・・・お!色々なだんじりが・・・。

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建物の中央で、ガラス張りの中にだんじりがたくさん置かれている。

「上野天神祭」
伊賀市上野地区にある菅原神社で行なわれる秋祭りである。
1585年(天正13年)、筒井定次が伊賀の領主となり菅原神社(別名「上野天満宮」)を祀ったことに起源を発し、1608年(慶長13年)には藤堂高虎が天満宮の新改築、寄進等に力を注いだ。その後1682年(天和2年)に天神祭礼倹約令により省略されているが、1688年(元禄元年)には復活し藤堂高久が祭礼を城内假御殿より見物、田楽、能、狂言等が行われ、三之町の鬼行列も始められたとされ、おおよそ現在の形態を整えたとされる。
京都の祇園祭の山鉾に似た、だんじり(楼車)の巡行と、鬼行列が有名であり、神輿の渡御を中心とする祭りに仮装の行列や作り物が加わり、現在のような鬼行列や印、だんじりで賑わう形態を整えるようになったものである。印は依代と考えられるもので、それを囃すだんじり、そして奴振りを伴った鬼行列が続く、類例の少ない貴重な行事であり、「上野天神祭のダンジリ行事」として重要無形民俗文化財に指定されている。
400年の伝統をもつ祭は、重さ120kgもの日本一の大御幣を先頭に役の行者や鎮西八郎為朝、百数十体の鬼行列、絢爛豪華な9基のだんじりが、城下町を練り歩く。だんじりの上で奏でられるお囃子は、祇園祭で奏でられるものが元になったといわれている。

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絵巻物を見ているようなデザインですな。

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余計な僕の説明は無しで、見てくださいな。

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きらびやかですな。

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神輿場の様なものも有るね(下の写真)。

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人形で祭の様子をあらわしている。

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2階へ上がる。

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先程のだんじりを上から見られるように、吹き抜けになっているのだ(下の写真)。

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2階の目の前には巨大スクリーンが有り、約10分間のイメージビデオが流された(下の写真)。祭の様子も分かった。
全編録画したが、ブログにはアップしません(利用している無料動画投稿サイトの容量制限の問題で・・・(^^ゞ)。

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だんじり会館を出たら自転車を回収し、次は芭蕉生家へ向かう。
国道25号と163号の共有区間の道路沿いに有る(また下の地図参照)。

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過去に「大阪~津・伊勢湾サイクリング 2006.04.08」で前を通ったことが有る。国道163号の完全トレースというコース取りをしていて、通過した次第。あの時は立ち寄らなかったが、今回は勿論じっくりと立ち寄る。
しばらく国道を東進して・・・到着(下の写真)。

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国道の歩道上に記念の石柱が立っている(下の写真)。

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その横、歩道から少し奥まった所に「生家西門付近芭蕉句碑」が有る(下の写真)。

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古里や 臍のをに泣 としのくれ

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貞享4年(1687年)芭蕉44歳の時の作。
季語は「としのくれ(年の暮れ)」で冬。伊賀上野に帰郷した時に読んだ。
意味は
「年の暮れに年老いた兄妹のいる故郷の生家に帰り、自分のへその緒をふと手にとってみた。今は無き父母の面影が偲ばれ、懐旧の情に堪えかね涙にくれるばかりである。」
 

さて、芭蕉生家は内部を見学出来る。入口は国道沿いではなく、国道に接続している脇道沿いに有る。ちなみにこの脇道、非常に幅員が狭いがクルマの往来がなぜか多いので、ウロウロしていると危ないのでご注意を・・・。
で、下の写真が芭蕉生家。
道を挟んで対面に専用駐車場が有るので、その隅に自転車を駐輪。

『芭蕉翁生家』

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現在の建物は、芭蕉の生まれ育った頃から改変を余儀なくされたが、明治18年松尾惣内のときの屋敷は、宅地面積86坪4勺あった。
松尾家は累代この屋敷に住み、近くの真言宗愛染院を菩提としてきたが、明治18年、旧藤堂藩士立入氏に譲って転居した。昭和25年、立入氏より現伊賀市に寄付されて現在に至っている。

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戸を開け、頭を低くしてかがむように通り抜けて中に入る。

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下は内部の見取り図。中の受付で頂いたパンフレットに記載されている物。文字が見難いが、まぁだいたいの雰囲気だけ感じてくださいな(^^ゞ

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では、順番に・・・。

「表(みせ)の間」
八畳の広さ。

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この、障子を通して入る通りからの光が良い雰囲気なんだよね(下の写真)。

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隣の四畳の間(下の写真)。

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その隣に八畳の広さの座敷のような部屋(下の写真)。

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上の写真の部屋は、下の写真の「通り庭」という長い土間の様な所を歩きながら撮影している。

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ここには下の写真の様な物が置かれている。

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生活用具が雑然と置かれている。

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中庭が有る。中庭に面した先程の座敷(下の写真)。

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中庭は「座敷先庭」と呼ばれるらしい(下の写真)。

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再び通り庭の様子(下の写真)。

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味噌甕とか・・・(下の写真)。

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竈とか・・・(下の写真)。

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途中に三畳位の部屋が有る(下の写真)。長持ちが置かれている。

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奥へ進むと風呂場や厠が並んでいる(下の写真)。
暗過ぎて中を写せなかったが・・・。

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「下雪隠」だけ中をパチリ(下の写真)。

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通り庭を抜けると一旦母屋の外に出る(下の写真)。そこに「釣月軒(ちょうげつけん)」という離れが有る(下の写真の左の建物)。

「釣月軒」

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生家の裏にある釣月軒は、芭蕉翁が処女句集『貝おほひ』を執筆したところで、伊賀へ帰省の折には、この建物で起居した。

中に入ると六畳ほどの広さの部屋が有る(下の写真)。

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いい塩梅の日の光が差し込む窓(下の写真)。

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天井の様子(下の写真)。

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ここで松尾芭蕉が執筆活動をしていたのですな。

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釣月軒から出て裏庭へ・・・(下の写真は釣月軒の玄関)。

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裏庭に句碑が有る(下の写真)。

「釣月軒前芭蕉句碑」

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無名庵跡 冬籠り またよりそはん 此はしら はせを

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今年は久しぶりに自分の草庵で冬籠りをすることになった。いつも背を寄せ親しんできたこの柱に、今年もまた寄りかかってひと冬隠居を楽しむことにしよう

芭蕉翁生家をあとにし、国道を横断して寺町のほうに向かってみよう。時刻は11:20頃。
ちなみに寺町は伊賀鉄道の広小路駅と茅町駅との間の線路の西辺りに位置する。

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かつての街道を西進。

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通りでは情緒ある古民家に時折出くわす。

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虫籠窓が如何にもな雰囲気を醸し出している(下の写真)。いいね~。

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途中で街道を示す道標(下の写真)。“伊賀街道起点の地”だそうだ。

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僕が西進してきた道(下の写真)。向こうから走ってきた。

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石柱を見ると、京・大阪・奈良への大和道と、東海道方面の分岐点ということらしい。
下の写真の左側の石柱の面は東面に当たり、「すぐ京大阪ならはせ道」と彫られている。右の面は北面に当たり、「ならはせ」と彫られている。

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下の写真は南面。「是ヨリ北江東海道関」と彫られている。つまり北の方角が東海道へ通じる道。

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確認し忘れたが、裏の西面には「すぐいせ左リ江戸」と彫られているらしい。

さて、程無くして寺町に到着(下の写真)。

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白壁の塀が続く通りに、七つの寺が集まっている。かつては城の防衛線として機能していそうだ。
寺への参拝者が多いな・・・。と思っていたら、お彼岸ですね。墓参りの人が多いようだ。そのせいで通りには駐車しているクルマがたくさん。片側相互通行状態になってしまっている。そこで誰かが通報したのだろう。パトカーが路上駐車をやめるように呼びかけて回っている。そんな状態なので、折角の良い感じの通りが、この日は路上駐車によって残念な状態になっている。自転車で走る時もきょろきょろ見回して気を付けていないと危なくて、ノンビリ・ポタリングを出来ない(-"-)・・・ま、愚痴はやめておくか・・・。

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写真では良い感じの雰囲気の場面を載せておきますね。

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今回、寺は通りから眺めるだけ。

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パトカーによって路駐が少し減りました~。通りに着いた時にはマジで数珠繋ぎの路駐状態だったよ。
下の写真の2台のクルマが写っていなかったら・・・この通りが良い感じだと想像付くでしょ?白壁の塀と道の舗装が、良い雰囲気を醸し出している。

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ところで前述の七つの寺と言うのは、「上行寺」「妙昌寺」「万福寺」「念仏寺」「妙典寺」「善福院」「大超寺」。

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何処の寺も墓参りの人が来ているな。

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こうして寺を見ながら少しずつ南へ・・・。

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ここは寺の境内に植えられた松の木が通りから見えて良い感じだし、4月になれば桜の花も見えるらしい。下の写真の一見何も葉の無い木々は桜の木だ。塀の向こうの桜が花を咲かせ、それを通りから見れるのも良いだろうな~。

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寺町通りを南に抜けたら、また西へ・・・。
次は「蓑虫庵」を目指す(下の地図参照)。

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そして到着。時刻は11:45頃。

『蓑虫庵』(みのむしあん,さちゅうあん) 案内サイト

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自転車を駐輪して中へ。
ここは10年前に一度入っている。

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受付の前を通って中へ・・・。
また門をくぐる(下の写真)。

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良い感じの庭が有る。

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通りのクルマの音が殆ど聞こえない。

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・・・いや、音は耳から入っているのだろうけれども、頭が自然とそれを遮断しているのだろう。この雰囲気がそうさせてくれるようだ。

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蓑虫庵の茅葺の建物(下の写真)。

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伊賀上野には「芭蕉五庵」(無名庵・蓑虫庵・東麓庵・西麓庵・瓢竹庵)と呼ばれる芭蕉にゆかりの草庵が有った。その中で唯一現存するのがこの蓑虫庵である。

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芭蕉の門弟服部土芳は、1688年(貞享5年)3月4日ここに庵を開き、些中庵と名づけた。当時城下町の最南端に位置し閑静な場所であった。折から「笈の小文」の旅で伊賀上野 に帰郷していた芭蕉が1週間後の11日にこの庵を訪れ、庵開きの祝いに「みの虫の音をききにこよ草の庵」の句を贈ったことから、上五の「みの虫」を取って蓑虫庵と呼ばれるようになった。

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服部土芳
1657年(明暦3年)伊賀上野で木津孫次郎保何の五男として生まれ、のち藤堂藩士服部家の養子となり、生涯を独身で通した。1730年(享保15年)に74歳で没するまでこの庵で隠棲、その間芭蕉伊賀連衆の要となり、芭蕉の偉業を後世に伝えるため、『蕉翁句集』『蕉翁文集』『三冊子』(赤そうし・白そうし・忘れ水)などを筆録した。生来能筆で緻密な土芳は入庵後の生活を事細かく『庵日記』『横日記』『蓑虫庵集』に書きとどめたので、この句日記を通じて当時の芭蕉伊賀連衆の動向が手に取るように理解できる。

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庵は1699年(元禄12年)12月に焼失したが、土芳の俳友たちの援助により再興されている。土芳はここを伊賀における俳諧道場とし、芭蕉没後も蕉風俳諧を普及させるため尽力した。

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庵はその後も荒廃したり、所有者の変遷を経たりしたが、1955年(昭和30年)12月に上野市の所有となり、翌年から一般公開している。
庭内には、芭蕉堂や芭蕉の代表句「古池や蛙飛こむ水の音」をはじめとする句碑が建ち並んでいる。

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建物の玄関から土間に入る(下の写真)。

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玄関と言うのが良いのかな?土間にかまどが有る(下の写真)。

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先程の座敷のほうを見る(下の写真)。

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庭にはたくさんの句碑が有る。

「古池塚」 (下の写真)

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古池や 蛙飛こむ 水の音  はせを

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最もよく知られた芭蕉の代表作であり、蕉風開眼をあらわす円窓をうがち、跳躍する蛙を浮き彫りする名碑である。

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蛙が掘られている(上の写真)。
そして池(下の写真)。

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「若菜塚」 (下の写真)

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卒度往て 若菜摘はや 鶴の傍  土芳

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土芳の『庵日記』元禄9年の條に「七草の夜、雪芝の祖母升かけ切る 年賀とて例の若菜の会次で祝あり 二句」と前詞の有る一区で、土芳二百回忌の際、参加者に頒布した土芳自筆の短冊をそのまま模刻した句碑である。
 

「みの虫塚」 (下の写真)

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みの虫の音を聞ばやとこの庵   黄子園

芭蕉翁記念館の篤志寄附者神部満之助氏の句碑である。氏は観魚荘内本紅蓼氏を師として句を作り、芭蕉を敬慕する実業家として有名。
 

「なづな塚」 (下の写真)

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よく見ればなづな花咲く垣ねかな   はせを

昭和14年庵の所有者菊本碧山氏が自ら筆をとって建立された句碑である。句は芭蕉43歳の作。
 

「偲聖芭蕉翁遺蹟」 (下の写真)

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裏には別の茅葺の小さな堂が有る。

「芭蕉堂」 (下の写真)

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昭和5年12月義仲寺芭蕉堂にならい、時の庵主菊本碧山が建立したもので、堂内には舟仙作芭蕉像を安置し、脇侍に土芳の位牌を祀る。

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堂内の様子(下の写真)。

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さて蓑虫庵を出て、自転車に跨り、次は鍵屋の辻を目指す。
最短ルートをとると路地が多く、いちいち地図で確認しなければいけなくなりそうだったので、分かり易い国道経由で行くことに・・・(下の地図参照)。

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国道422号に出てちょっと西進。程無くして国道422号と国道25号が合流する交差点で右折。国道422号と国道25号の重複区間を北上。ノーヘルでの国道走行は嫌だったが、路側が広めだったのでストレス無く走行(写真は無し)。途中で鍵屋の辻への道標を見つけ、国道から離れて市道へ(下の写真)。

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下り坂を道なりに進んでいくと、変形の交差点に到着(下の写真)。
ここが「鍵屋の辻」だ。時刻は12:10頃。

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僕は上の写真の右に続いている道からここへ来た。
上の写真の自転車を置いている所が下の写真。

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鍵屋の辻の石柱と立て札が有る。奥は「鍵屋の辻公園」となっていて、あとで入る「伊賀越資料館」が有る。
「鍵屋の辻」と言えば、決闘が有名。

「鍵屋の辻の決闘(かぎやのつじのけっとう)」
1634年12月26日(寛永11年11月7日)に渡辺数馬と荒木又右衛門が数馬の弟の仇である河合又五郎を伊賀国上野の鍵屋の辻で討った事件。伊賀越の仇討ちとも言う。曾我兄弟の仇討ちと赤穂浪士の討ち入りに並ぶ日本三大仇討ちの一つ。
1630年(寛永7年)7月11日、岡山藩主池田忠雄が寵愛する小姓の渡辺源太夫に藩士河合又五郎が横恋慕して関係を迫るが、拒絶されたため又五郎は逆上して源太夫を殺害してしまった。又五郎は脱藩して江戸へ逐電、旗本の安藤次右衛門正珍にかくまわれた。激怒した忠雄は幕府に又五郎の引渡しを要求するが、安藤次右衛門は旗本仲間と結集してこれを拒否し、外様大名と旗本の面子をかけた争いに発展してしまう。
1632年(寛永9年)、忠雄が疱瘡のため急死した。よほど無念だったのか、死に臨んで又五郎を討つよう遺言する。子の光仲が家督を継ぎ、池田家は因幡国鳥取へ国替えとなる。幕府は喧嘩両成敗として事件の幕引きをねらい、旗本たちの謹慎と又五郎の江戸追放を決定する。しかし源太夫の兄・渡辺数馬は仇討ちをせざるをえない立場に追い込まれた。戦国時代よりの仇討ちの習いとしては兄が弟の、父祖が子孫の、主君が配下の仇を討つことは異例なことであったが、主君忠雄の遺言による上意討ちの内意を含んでいた。数馬は国替えに従わず、仇討ちのために脱藩する。
剣術が未熟な数馬は姉婿の郡山藩剣術指南役荒木又右衛門に助太刀を依頼する。数馬と又右衛門は又五郎の行方を捜し回り、1634年(寛永11年)11月に又五郎が奈良の旧郡山藩士の屋敷に潜伏していることを突き止める。又五郎は危険を察して再び江戸へ逃れようとする。数馬と又右衛門は又五郎が伊賀路を通りって江戸へ向かうことを知り、道中の鍵屋の辻で待ち伏せすることにした。又五郎一行は又五郎の叔父で元郡山藩剣術指南役河合甚左衛門、妹婿で槍の名人の桜井半兵衛などが護衛に付き、総勢11人に達した。待ち伏せ側は数馬と又右衛門それに門弟の岩本孫右衛門、河合武右衛門の4人。
11月7日早朝、待ち伏せを知らずに鍵屋の辻を通行する又五郎一行に数馬、又右衛門らが切り込み、決闘が始まる。孫右衛門と武右衛門が馬上の桜井半兵衛と槍持ちに斬りつけ、半兵衛に槍が渡らないようにした。又右衛門は馬上の河合甚左衛門の足を斬り、落馬したところを切り伏せた。次いで又右衛門は孫右衛門と武右衛門が相手をしていた桜井半兵衛を打ち倒す。このとき武右衛門が斬られて命を落としている。頼みとしていた河合甚左衛門、桜井半兵衛が討ち取られたことで、又五郎側の多くは戦意を喪失し、逃げ出してしまった。逃げ遅れた又五郎は数馬、又右衛門らに取り囲まれた。又五郎を倒すのは数馬の役目で、この二人は剣術に慣れておらず、延々5時間も斬り合い、やっと数馬が又五郎に傷を負わせたところで、又右衛門がとどめを刺した。俗に又右衛門の「36人斬り」と言われるが、実際に又右衛門が斬ったのは2人である。
また、決闘地の領主である津藩藤堂家が又五郎一行の情報を提供したり、兵を密かに配置したり、決闘が始まると周囲を封鎖して又五郎の逃走を阻止するなど、数馬、又右衛門らを支援していたともいわれる。支援の理由はこの事件を外様大名と直参旗本との争いとみなしたためと見られる。
見事本懐を遂げた数馬と又右衛門は世間の耳目を集めた。特に実質仇討ちを主導した荒木又右衛門は賞賛を浴びた。数馬と又右衛門、孫右衛門は伊賀上野の藤堂家に4年間も預けられ、この間、又右衛門を鳥取藩が引き取るか、旧主の郡山藩が引き取るかで紛糾する。結局3人は鳥取藩が引き取ることになった。
1638年(寛永15年)8月13日、3人は鳥取に到着するが、その17日後に鳥取藩は又右衛門の死去を公表した。又右衛門の死があまりに突然なため、毒殺説や生存隠匿説など様々な憶測がなされている。
Wikipediaより)

ここは津への伊勢街道と奈良への奈良街道の分岐点に当たる辻で、道標が立っている(下の写真)。

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「ひだりならへ」と示されている道が下の写真。

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一方、「みぎいせみち」というのは・・・。

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下の写真は「いせ道」ではなく・・・。

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「みぎいせみち」ということは、僕が来た道が「伊勢道=伊勢街道」のようだ(下の写真)。

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さて、鍵屋の辻公園に入ってみるか・・・(下の写真)。

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公園の池の前で、補給食を食べつつちょっと休憩。

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少し休んだところで、伊賀越資料館に入ってみる(下の写真)。10年前に来た時にも入ったことが有る。

『伊賀越資料館』

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錦絵や小説では36人斬りの武勇を見せる荒木又右衛門。彼自筆の起請文、助太刀の事情を書いた記録、仇討ち当時の遺品や文学となった資料のほか、豊国作の伊賀越え仇討ちの錦絵などを展示している。
館の裏手には河合又五郎の首を洗った池も復元されている。

内部の展示物の撮影は不可なので、写真は無し。
河合又五郎の首を洗った池は・・・・怖いので写真撮影は無し(^^ゞ

さて、時刻はまだ12:30ぐらいだが、これで今日は終わりにしよう。まだ観光スポットが無いわけではないが、花粉で目が痒くなってきたので、酷くならないうちに退散したい。メジャーなスポットは殆ど回ったからもうこれで満足だ。また、普通の自転車乗りはここで何かおいしいランチをしてポタをシメるのだろうが、僕はグルメ度ゼロのサイクリング派でもあり、花粉症で目が痒くて鼻水がズルリ気味の時に外食はしたくないので・・・・、帰る!
鍵屋の辻から伊勢道を戻り、今度は国道に入らずに横断して東進。上野市駅方面に走り、12:40ちょい前には駅に到着(下の写真の左上)。
サッサと自転車を輪行袋にパッキングしてホームへ・・・(下の写真の右上)。

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松本零士の忍者列車の側面に何故かネコ?・・・何の関係が?(上の写真の中段)。
丁度新旧車輛が並んで停まっている(上の写真の下段)。皆さんはどちらが好み?

20110319ride_260s さて、暫く待っていると13:02発の列車が到着し、乗り込む(右の写真)。あとは往きと同じに終点の伊賀神戸駅まで乗り、13:30に終点に到着。
今度は13:52発の近鉄大阪線急行・大阪上本町行きに乗り換え、大阪へ・・・。
大阪市内に入って鶴橋駅で乗り換え、幾つかの路線を乗り継いで最寄り駅へ。
最寄り駅に着いたら自転車を組み立て、僅かな距離を走り、無事に帰宅。時刻はまだ16:15。

こうして早起きをし、朝一番で伊賀上野の観光をし、殆ど午前中で主要な観光スポットを巡り終えた。
しかし決して足早ではなく、一つ一つの観光スポットで時間をかけることが出来た。伊賀上野の観光スポットは電車やバスに乗らないと難しい程広いわけでもないし、徒歩でもOKだが、移動時間を短くし、少し楽をしようと思ったら自転車が移動の足として丁度良いと思う。僕のように輪行をしなくても、レンタサイクルが駅の近くに有るらしいのでそれを利用しても良いだろう。ついでにサイクルトレインを味わってみるのも面白いかも知れない。そして短縮した移動時間の分だけ、各観光スポットに時間をかけ、(僕はしなかったが)食事やお土産の買い物も落ち着いて楽しめば良いだろう。あるいはもっと市街地から離れた田園風景の有る場所も走ってみるのも良いかも知れない。言い換えれば、伊賀上野はそういう観光ポタリングを丁度し易い街のサイズと言えるのではないだろうか。
走ることをより楽しみたい人は、大阪くらいからロードバイクでならば、午前中に自走で伊賀上野に着き、昼から夕方まで観光ポタをして輪行で帰るというのも可能であろう。
今回の観光の中身については、歴史の表舞台のようなもの(←上野城とか鍵屋の辻とか)、あるいは歴史の裏のようなもの(←伊賀忍者とか)、文学や風情の有るもの(←松尾芭蕉関係とか寺町とか)、風俗・文化的なもの(←だんじり会館とか)等々、文学・歴史をベースに結構充実した内容だった。半日のポタリングでこれだけ観られたら充実していると思う。
今回のポタリングは3月の半ば頃だったが、この記事を投稿した4月上旬になれば、上野公園の桜が開花しているだろう。花見ポタも良いかも知れない。人は多そうだけどね・・・。

さて、そういうわけで、久しぶりの観光ポタリング・・・満足でした。
 

コース概略/自宅→○○線・△△駅~(輪行)~□□線・▽▽駅・◇◇線~(輪行)~上本町駅・近鉄大阪線~(輪行)~伊賀神戸駅・伊賀鉄道~(輪行)~上野市駅→上野公園(芭蕉翁記念館→上野城天守閣→俳聖殿→伊賀流忍者屋敷)→だんじり会館→国道163→芭蕉翁生家→寺町→蓑虫庵→国道25(422)→鍵屋の辻→伊賀越資料館→本町通り→県道56→伊賀鉄道・上野市駅~(輪行)~伊賀神戸駅・近鉄大阪線~(輪行)~鶴橋駅・◇◇線~(輪行)~▽▽駅・□□線~(輪行)~▲▲駅・■■線~(輪行)~▼▼駅・◆◆線~(輪行)~◎◎駅→自宅

走行距離/11.14km
走行時間/1hr10min
平均速度/9.50km/hr
最高速度/28.71km/hr
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Comments

おぉ、忍者列車!なんて凝った鉄道なのでしょう。
そういえば私の町にも数年前まで鉄道が走っていて、イラスト描いてあるのもありましたよ~。
http://pucchi.net/hokkaido/gingasen/train.php

伊賀といえばやはり「忍者」ですよね。
動かない忍者、動く忍者とも大笑い(*≧m≦*)
おぉ、鎖鎌!宍戸梅軒!
手裏剣怖いっΣ(゚д゚lll)アブナッ !

梅の花が綺麗ですね。

« 投稿: MariRose  2011年4月 4日 (月) 20時05分

MariRoseさん>
そちらの銀河鉄道のほうが良いですね~。合っています。松本零士しかないでしょう。

動く子供忍者は案外といましたよ。
忍者なのに白昼堂々と~。
アハハ!

« 投稿: Katze  2011年4月 5日 (火) 19時47分

こんばんは!
伊賀上野ポタリング読まさせていただきました。
これからは、桜の季節だから、どこへ行っても気持ち良さそうですよね。
僕も自宅の奈良から伊賀上野に自転車で行きましたよ。happy02
僕も行った時は、子供が忍者の格好で街中を歩いていましたよ。かわいいですよね。
伊賀流忍者博物館の水蜘蛛、僕も実際履いて写真を撮りました。さすがに忍者の格好になる勇気はありませんでしたが・・。伊賀鉄道、今度行ったら乗ってみたいです。

« 投稿: サムライ  2011年4月 6日 (水) 00時01分

サムライさん>
おぉ!そうですか~。
奈良にお住まいなら、ここはツーリング場所として先ずはやっておきたくなりますね。
そろそろ今週末くらいは上野公園の桜も見頃かもしれませんね。
伊賀鉄道にお乗りになるのなら、たとえ数駅間でもあえてサイクルトレインを経験してみてはいかがでしょう。

« 投稿: Katze  2011年4月 7日 (木) 19時54分

 






 

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