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2011年5月 7日 (土)

安芸竹原・小京都ポタリング 2011.04.09

年月日/2011年4月9日

バイク/GLOBE (SPECIALIZED) Small Bike

目的/安芸の小京都として知られる竹原市の「たけはら町並み保存地区」をポタリングする。

ポイント/往復輪行。

内容/
前回「平福宿~大原宿・武蔵の里ポタリング 2011.04.02」に引き続き、今回もスギ花粉飛散まっただ中の“省エネお気楽小径車 with マスク”のポタリングというわけで(このポタリングは4月9日で(^^ゞ・・・投稿した今は勿論スギ花粉の飛散時期は終わっている)、どこに行こうかと考えた結果、また以前より温めていた計画の一つ、広島県の竹原市にある「たけはら町並み保存地区」に決めた。
竹原市の中心部の位置は下の地図で示した辺り。瀬戸内海に面していて、芸予諸島の傍、自転車乗りには超有名な「しまなみ海道」や「とびしま海道」も近い。

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もう少し拡大した地図を下に載せた。
「たけはら町並み保存地区」は竹原市の中心部近い所に有る。平安時代に京都下鴨神社の荘園として栄えた歴史から「安芸の小京都」と呼ばれている。江戸時代後期に製塩や酒造業で栄えた屋敷や由緒ある寺と町並みが今もそのまま保存されている場所だ。

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大阪からは新幹線で三原駅まで行き、JR呉線に乗り継いで竹原駅へ・・・。竹原駅からスタートして町並み保存地区へ向かうというわけ。

自転車は言うまでも無く、折り畳み小径車 GLOBE (SPECIALIZED) を使用。

ところで、この日の近畿は夜中から朝方まで雨の予報。3:30頃に起床したら当然窓の外は雨。午前中に止むようだが、早朝の出発時にはまだ雨だ。ちなみに竹原界隈は朝から晴れるらしい。出発時に家から最寄駅までの間に雨に濡れるだけなので、決行することにする。勿論レインウェアを着用(傘さしは道交法・条例違反ですよ~~)、それから、駅で濡れた自転車を拭いてから輪行袋に入れたいので、乾いた雑巾を数枚所持し、自宅を少し早目の4:30に出発。
「何で雨の中、こんなにまでして自転車で出かけるんだろう。」という思いが頭をよぎるものの、濡れながら最寄駅に到着。レインウェアと自転車に付いた雨滴を雑巾で拭き、自転車を輪行袋にパッキング。拭き取り作業の時間を考慮して少し早めに出たので、余裕で列車に乗り込み、JR新大阪駅へ・・・。あとは以下のようにして竹原駅を目指す。

新大阪
|  こだま731号(博多行)
|  06:05-08:05[120分]
| (下の写真の上段)
三原 (下の写真の左下)
|  呉線(広島行)
|  08:29-09:04[35分]
| (下の写真の右下)
竹原

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JR呉線に乗るのはおそらく初めてだったと思う。特に何か期待していたわけではなかったが、三原駅から乗って暫くしてから、下の車窓が!

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呉線の線路は相当に海に近い所を走るようだ。

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瀬戸内海と芸予諸島の美しい景色が見える!
窓のガラス越し(しかもドアの近くなのでドアの戸袋によく有る二重のガラス越し)なので、写真はいまいちだが(やむを得ずコントラスやシャープの画像処理をしました)、生ではガラス越しでも綺麗に見える。

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すばらしい!この道を走ったら気持ち良いだろうな。

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いつか走ろう。そうそう、「しまなみ海道」や「とびしま海道」も走ってみないとね~。

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あとで調べてみたら、呉線は「瀬戸内さざなみ線」という愛称が有り、観光路線としての色合いも強いらしい。海のすぐ近くまで山が迫る区間も多く、山と海の間の狭い場所を通り抜けていくシチュエーションがとても良い。そして安芸幸崎駅~忠海駅間は車窓からこうして瀬戸内海を眺望出来るのだ。

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思わぬ景色に興奮気味♪

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そう言えば昨年、豪雨の土砂崩れで一時不通になっていたのをニュースか鉄道情報で見た気がする。復旧して良かったですな~。

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上に載せている写真の枚数の数倍は撮ったよ~~。走る前から撮り過ぎ!みたいな~~。

定刻通りに竹原駅に到着。
ところで、車中や駅構内でここ竹原を舞台にしたようなアニメのポスターが散見される。僕はアニメやマンガの二次元系に興味が無いので全く知らなかったのだが、あとでネットで調べたところ、昨年秋頃に「たまゆら」という、ここ竹原を舞台にした女子高生が主人公のOVAのアニメが発売され、結構評判が良かったらしい(一応公式サイトを紹介しておこう→http://www.tamayura.info/)。今度TVアニメ化もされるようだ。僕は見ないけど・・・。・・・すいませんね~、二次元系に興味が無くて・・・(別にそういう趣味の人を否定してはいませんので・・・)。そうそう、だから今回の竹原ポタリングは「たまゆら」がきっかけではありませんので・・・偶然です(と書いている時点でそういう人と一線を画したいのだろうと思われるか・・・)

あと、ちなみに竹原市の観光サイト→「安芸の小京都 きてみんさい竹原」も見てくださいな。

話しは戻って・・・・。
自転車を組み立て、9:15頃に駅を出発(下の写真)。

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町並み保存地区は駅の北側に有る(下の地図参照)。

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上の地図の青色のルートのように地区へ向かう。
駅北口の商店街の通りに入る(下の写真)。

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まだ殆どの店が閉まっている。開店しているのは薬局くらい(病院が開いている時刻だからな・・・処方箋を持って患者が来るし・・・)。

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商店街を抜けて本川のほうを目指す。

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本川を渡る国道185号の新湊橋に到着。川を渡ると交差点になっている(下の写真)。

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上の写真の右上が新湊橋。左上が南に向かう国道185号。右下が北東に向かう県道75号。左下が本川沿いの楠通り。
本川は普通の町中の川ですな(下の写真)。

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さて、ここから町並み保存地区に入る。
下の地図は地区の概略図である。新湊橋は地図の一番下に有る。主な観光スポットを“○”や“卍”で始まる名まえで書いた(神社らしい所も“卍”で書いてしまったかな・・・(^_^;))。

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今回全てを見て回ったわけではなく、何となくスルーした場所や、うっかり見逃した所も有る。見た所は名まえの下に下線を引いた。ここで紹介するのは、当然見た所だけである。
道に沿って書かれた緑色の字は通りの名まえである。

では、先ずは新湊橋のすぐ傍に有る「頼山陽銅像」から・・・。

『頼山陽銅像』

(頼山陽の解説サイト→http://raisanyou.com/top.htm

本川の川辺に像が見える(下の写真)。

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頼山陽の坐像だ(下の写真)。

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頼山陽(らい・さんよう)(1780~1832)は江戸時代後期の日本を代表する漢学者で、歴史・文学・美術などのさまざまな分野で活躍した。
歴史の分野では,没後に出版された『日本外史』がベストセラーとなり、幕末から明治初期の人々に大きな影響を与えた。文学の分野では、数多くの詩文を作り、川中島の合戦を題材にした「鞭声粛々」の詩や、天草洋の風景を詠んだ「天草洋に泊す(雲か山か)」の詩などは幅広く愛誦されている。また美術の分野では、能書家として著名で、絵画についても「耶馬溪図巻」などの優れた水墨画を残している。

像の横に詩碑が建てられている(下の写真)。内容は両者とも同じようだ。

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「不識庵機山を撃つの図に題す」(上の写真)

鞭声粛々夜河を過たる
暁に見る千兵の大牙を擁するを
遺恨十年一剣を磨き
流星光底長蛇を逸す

上杉軍は夜陰に乗じ、敵に気取られないよう、馬に当てる鞭の音も静かに犀川を渡った。武田軍の陣営では、霧が晴れ夜が明けてみると、なんとそこで大将旗を擁した上杉謙信の大軍が迫っているのを発見したのである。不意を衝かれ、大混乱に陥った武田軍に、この十年の遺恨を晴らすべく、ただ一剣を研ぎ磨いてきた謙信は、すかさず刀光一閃、信玄に切りつけたのである。信玄は太刀を抜く間もなく、軍配扇でただ防ぎに防いだ。信玄は駆けつけた救援により間一髪虎口を脱し、謙信はまたしても宿敵“長蛇”信玄を討ち漏らしたのである。

武田信玄と上杉謙信の川中島の合戦のくだりとのこと。“鞭声粛々”という言葉は聞いたことが有りますな。

頼山陽は、安永9年(1780)12月27日、大坂の江戸堀北一丁目(現在の大阪市西区江戸堀)にあった「春水南軒」で生まれた。

山陽の祖父惟清(ただすが)(1707~83)は、安芸国竹原で紺屋(染物業)を営む町人であったが、その長男春水(しゅんすい)(1746~1816)は幼少時から書や詩文に才能を発揮し、明和3年(1766) に大坂へ遊学した。春水は尾藤二洲や古賀精里らとともに朱子学の研究を進め、江戸堀に私塾「青山社」を開き、その居宅を「春水南軒」と名づけた。
安永8年(1779)11月、春水は当地の儒医飯岡義斎の長女静子(1760~1843)と結婚し、翌年末に長男久太郎(のちの山陽)が誕生した。
天明元年(1781)12月、山陽の父春水は,広島藩の学問所創設に際して儒学者に登用され、それに伴って一家は大坂から広島へ移住した。しかし春水が江戸在勤となったため、翌年から約2年間母の実家に滞在し、6歳以後広島で暮らすようになった。
父春水は江戸在勤で留守がちだったため、山陽は母や叔父杏坪(きょうへい)(1756~1834)の教育を受け、幼少時から詩文の才能を示した。下記は14歳の時に作った「癸丑歳偶作」である。

十有三の春秋 逝く者は已に水の如し
天地 始終無く 人生 生死有り
安んぞ古人に類して 千載 青史に列するを得ん

(どうか、いにしえの聖賢のように、
 永久に歴史書に記されるような人物になりたいものだ)

青少年期の山陽は病弱で、精神的に不安定であった。18歳の寛政9年(1797)には江戸の昌平黌(しょうへいこう)に遊学したが、翌年に帰国した後はその傾向が益々強まった。同11年には,広島藩医・御園道英の娘淳子と結婚したが、翌12年9月5日、大叔父伝五郎の弔問のために竹原へ向かう途中、突如脱藩して京都へはしった(理由は不明)。しかし11月3日に広島へ連れ戻され、屋敷に幽閉された。
この事件によって山陽は廃嫡され、竹原から従弟の景譲(叔父春風の子・1790~1815)が養子に迎えられた。また、翌享和元年(1801),妻淳子は藩法によって離縁され、同年に生まれた長男聿庵(1801~56)は頼家に引き取られた。しかし逆に廃嫡によって結果的に自由の身となり、文筆活動に専念できるようになった。幽閉は3年間に及び、その後も2年間謹慎生活が続き、その間『日本外史』や『新策』の初稿が書かれた。
山陽は26歳の文化2年(1805)に謹慎を解かれた。しかし平穏な日常に満足することができず、父春水の親友であった儒学者・詩人の菅茶山(かんちゃざん)(1748~1827)に書状を宛てて不平を訴えった。茶山は山陽の才能を高く評価し,地元の神辺(現在の広島県深安郡神辺町)に開いていた郷塾・廉塾の都講(塾頭)として迎えることになった(山陽30歳)。
廉塾での山陽は、茶山の代講や、詩集『黄葉夕陽村舎詩』の校正を担当した。茶山は山陽を塾の後継者として期待し、福山藩への出仕や妻帯を勧めた。しかし山陽はその境遇にも満足できず、翌7年7月に広島藩士築山捧盈に書状を差し出し、江戸,京都,大坂に進出して学業を成就させ、学者として天下に名をあげたいという心情を訴えた。結局山陽は、茶山の不興を買いながらも自分の意志を貫き、32歳の翌8年閏2月6日に京都へ向かった。
山陽は文化8年(1811)閏2月中に大坂を経て京都に入り、塾を開いた。しかし、この上京が広島藩に無届であったために問題となり、翌3月に大坂へ戻った。第二の脱藩事件ともなりかねなかったこの問題は、結局茶山の意向によって上京したという形をとって落着し、5月に再び入京した。山陽の念願はようやく実現したが、茶山の機嫌をひどく損ね、父春水も一切の音信を断った。当初、理解者は大坂の儒学者篠崎三島・小竹父子と京都の蘭方医小石元瑞だけという厳しい情況であったが,山陽は歴史書『日本外史』の論賛(自己の見解を述べた部分)などの執筆に励んだ。
2年後の文化10年(1813)3月,父春水は山陽の長男聿庵を連れて有馬温泉へ湯治に出かけた。この時山陽は大坂で春水と対面し、父に従って京都・宇治に遊んでいる。また翌11年5月には,江戸に行く途中の茶山を大坂で迎え、大津まで見送った。この頃には春水や茶山の気持ちもようやく和らぎ、同年8月23日、山陽は久々に広島へ帰省して4年半ぶりに母とも対面している。
山陽はこの頃、小石元瑞の養女梨影(りえ)(1797~1855)と再婚し、三男一女をもうけた。また同13年には父春水が没し,山陽はその遺稿を整理して『春水遺稿』を出版した。
文政元年(1818)3月、39歳の山陽は,広島で春水の三回忌を済ませた後,九州旅行に出発した。11ヶ月に及ぶこの旅行において、豊後の広瀬淡窓や田能村竹田らの学者・文人を訪ね、「天草洋に泊す」の詩や、水墨画「耶馬渓図巻」などの傑作を生み出した。
また同5年には東三本木丸太町の水西荘に転居し、その後邸内に書斎の山紫水明処(国の史跡)を建てた。同9年、47歳の山陽は『日本外史』22巻を完成し、翌年松平定信に献上した。

山陽は広島での幽閉中、司馬遷の『史記』を参考にして「三紀・五書・九議・十三世家・二十三策」の執筆構想を立てたが、『日本外史』はこのうちの「十三世家」に当たる。また「五書・九議・二十三策」に当たる政治経済論の『新策』は、広島在住時の文化元年(1804)に脱稿したが,のちにこれを改稿して『通議』とした。山陽は死の直前まで,『通議』と「三紀」に相当する歴史書『日本政記』の執筆を続けた。
このほかの著書としては、文政8年(1825)までに作った詩を自選した『山陽詩鈔』や、それ以後の詩文を門人が編集した『山陽遺稿』などの詩文集がある。山陽は書画や篆刻にも才能を発揮したが、特に書家として高く評価されている。
山陽は若い頃から春水の書風を学び、30代以降は中国の米元章・蘇東坡らの書法を研究し、40代後半以降に独特の書風を完成した。また上京以後、中林竹洞,浦上春琴,田能村竹田,江馬細香らの画人と親交を結び、中国画にも学んで,特に40代以降、気韻の高い水墨画を多数残している。
山陽は文政9年(1826)に『日本外史』を完成したが,この頃には学者・文人としての評価が高まり、京都文壇に確固たる地位を築いていた。山陽はさらに江戸への進出を計画していたが、その身には病魔が忍び寄りつつあった。

山陽は天保元年頃から体調を崩し、親友の蘭方医小石元瑞の診察を受けていたが、同3年6月12日に喀血。8月には自身の病の不治を悟り、門人の東山義亮に肖像画を描かせて自賛の文を作った。山陽は門人の協力を得て『日本政記』や『通議』内廷編の執筆を急いだが、次第に病状が悪化して9月23日に亡った。享年53歳。遺言に従い、京都東山の長楽寺に葬られた。

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山陽はしばしば祖父が住んでいた竹原を訪れていた。
この像は生誕200年を記念して、昭和55年に建立されたものである。

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さて、ここから本格的に町並み保存地区に入る。

通常のサイクリング記事では回った所を時系列的に書いているが、今回は結構何度もグルグルと行ったり来たりしたので、そのまま書くと場所がとても分かりにくくなる。少しでも分かりやすくするため、時系列では書かず、“場所”重視で書き並べていくことにする。
“通り”を大きく一くくりと考え、各通りに沿ったスポットを順に書いて、また次の通りに・・・というスタイルにする。そういうわけで、同じ通りの写真でも、時間が離れている物を並べて載せており、陽射しの具合とか、歩いている人の数とかの面で雰囲気がバラバラなのはご容赦を・・・。

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先ずは地区のメインストリートである「本町通り」と、その通り沿いのスポットを載せていきましょう。

『本町通り』

では通りの様子から・・・。

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いきなり通りを上から見た写真を載せているが、このアングルから撮れた理由は後程・・・。

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昭和57年12月16日に国の選定を受けた町並み保存地区では、江戸時代から明治・大正・昭和とそれぞれの時代の建築物の歴史的変遷を見ることが出来る。最古の建物は元禄3年(1690)年のもので、そのほかにも妻入り、平入り、長屋型、高塀をもつ屋敷型など多種多様な建造物が立ち並ぶ。

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この町の成立は、江戸時代初期に竹原湾を干拓して築いた大新開に、1650年頃播州赤穂より移入した入り浜式塩田を開発したことにより始った。
竹原の塩は全国へ送り出され、廻船業も盛んになり経済的発展をとげ、それに携わった人々によって町並みが形成された。

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コカコーラの自販機も周りに合わせ、茶色の“町屋敷モード”(下の写真)。

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竹原の町並みにある建造物には、様々な格子を見ることができる。一階部分には出格子があり、中二階には虫籠窓や武者窓と呼ばれる塗格子等がある。

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たまに洋風な建物も有る(下の写真)。

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タイミング悪く、逆光気味で暗くなった写真が多いのはご容赦を(^^ゞ
すいませんね~、撮影技術が初心者レベルで~(^_^;)

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さすが昔の豪商・お金持ちの屋敷が多いだけに品が有る気がするな。

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こういう所に住む人も景観の維持に苦労しそうですね。エアコンの室外機とかあまり目立たないように置かないといけませんしね。

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あとで通りの観光スポットを載せますね~。下の建物なんか、そういう観光スポット的な感じでしょ?

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昔の店の看板ですな(下の写真の“川堀”)

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竹原だけに、“竹”的な物も有りますな(下の写真)。昔から竹林が多かった所に町が造られたらしい。「竹原」の地名もそういったことに由来が有るらしい。

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「地割(じわり)跡」と記された案内板(下の写真)。歴史民俗資料館の敷地の横に見られる。

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地割とは・・・地面を区画して割り振ること。土地の割り当て。また、場所の割り振り。

つまり、この地割が現代の敷地にも残っているということは、この町が地割をした当時(江戸時代)から現代まで道路や敷地の位置・大きさが変わっていないことを示しているらしい。

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下の写真の向こうに「胡堂」が有り、あそこで「本町通り」は終わり。道路は舗装されているが、電線や電柱は殆どが隠され、建物から昔の町の雰囲気を感じることが出来た気がする。

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さて、この本町通りで巡った観光スポットを南から北へと順に載せておこう。
尚、偶然この日は「たけはら国際芸術祭2011」が開催されていて、内部を公開している屋敷内で、現代の色々なアーティストの作品が展示されている。

『旧笠井邸』

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本町通りの南端、接する鳥羽通り沿いに有る。

浜主の家として明治5年に建設された。庭園には、池の周囲に「春日灯籠」、「織部灯籠」庭の向こうには塩田から移築した建物がある。
建物は間口7間の右側、4間が平入り、右側より左側3間に、平入りの屋根の半ばから妻入りの屋根が抜き出た複型。本瓦葺の大屋根、袖壁を設けた建物。
現在はNPO法人ネットワーク竹原で、まちなみ再生特区一環として管理し、展示会・会議・箏、三味線の稽古・絵本の会などで公開している。

玄関から内部へ。

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部屋との境目に・・・(下の写真)。これを通り抜けて向こうの部屋と出入りするわけですな。これも展示アートかな?壊さないように注意して通り抜ける。

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1階の写真は殆ど撮らなかった(^^ゞ
次いで階段を登って2階へ(下の写真)。

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昔のラジオ。そしてその横に「たけはら国際芸術祭2011」の作品が展示されている。

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こういった感じで作品を展示しているわけです。

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座敷へ。

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2階の広間へ(下の写真)。

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ここでは現在、演奏会とかで使われているらしい。

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今は舞台の上に作品が・・・。

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ここの屋敷の見所はこの見事な梁。

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大きな屋根を支える、立派で複雑な梁だ。

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複雑に、それでいながらしっかりと組まれているように思える。

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梁三昧の写真ですが・・・。

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興味の無い方には似たような写真ばかりでスイマセン。

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ここから本町通りが見える。

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このように・・・。

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本町通りの最初に載せた、上から見た通りの写真は、ここ旧笠井邸の2階から撮影したものだったというわけ。

『小笹屋・竹鶴酒造』

(竹鶴酒造の紹介サイト→http://www.1e-sake.com/list/taketsuru.php

神明掛町通りとぶつかるT字路付近に位置する。

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上の写真は開店前。下の写真は開店後。

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竹鶴家は、古くから酒造業を営み「小笹屋」の屋号で知られている。
現在の建物の外観は、入母家妻入の前面に3尺の庇を出した主屋と、その南に次第に軒を高くする主屋と同じ形の2棟が並び、北側には主屋と棟を直角に切妻の「旧座敷」が連続している。南端の棟は明治期の銀行として利用され、新座敷は日露戦争後の増築である。主屋と南の蔵が一番古く、安永頃(1772~1780)後に旧座敷が増築されている。裏側には面皮の柱をもった座敷と茶室に囲まれた庭が有る。
江戸時代から残る蔵を改築した小笹屋酒の資料館には、代々伝わる酒器や酒造りの道具など約50点を展示。仕込みに使った直径2mの桶のふたをテーブルとして置き、伝統の銘酒の試飲も楽しめる。
「日本のウイスキーの父」と言われたニッカウヰスキーの創始者竹鶴政孝氏の生家としても有名である。

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内部は暗いので撮影は無し。

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酒は結構好きなんです。ただ飲む量は少なく、焼酎派なんですけど日本酒も好きです。入りたいが、入ってうっかり買って荷物になったり、試飲したりしたらそのあと自転車に乗れないので(飲酒走行は当然道交法違反ですよ)、外から覗き見するだけ~~。ここは酒造で知られた地であるだけに、酒を避けて巡るといまいちな感じになりますな~。酒を絡めたかったら自転車抜きの散策のほうが良いかも知れませんな~~。

『松阪邸』

(紹介サイト→http://www.takeharakankou.jp/guide/see/matsuzakatei.php

本通りの内部公開している屋敷の中でもメインな所でしょう。

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入母屋造り、平入り、間口七間のつし二階の主屋の裏側に、平行にもう一棟、本瓦葺の建物とその二棟を直角の角屋でつないだ、表屋造りとなっている。建築は江戸末期(1820頃)のものを明治12年(1879)に全面的な改造を行い、現在の形となった。
「てり・むくり」をもった波うつような独特の大屋根、その下のうぐいす色の漆喰、大壁造り、塗込めの窓額つき菱格子の出窓、ゆるやかにカーブした本瓦葺の下屋、彫をもった出格子、与力格子など、非常に華やかな建築意匠である。座敷は全体が数寄屋風の意匠で統一されている。

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初代は延宝2年(1674)広島から移住。沢田屋と称して塩田の必需品である薪問屋・石炭問屋を業とし、塩田経営、廻船業、醸造業と多角経営を行うかたわら、下市庄屋、割庄屋、竹原塩浜庄屋、竹原町長などを務めると共に文化活動を行った。

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敷地面積/904.44平方メートル(274坪)
建物/347.09平方メートル(105坪)
土蔵/99.16平方メートル(30坪)

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中へ・・・(実は最初に入った観光スポットがここ)。

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受付の有る土間を通り抜けて、一旦外へ(下の写真)。

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下の写真の右側の建物(表棟)から出、出て右手に有る、中央の開口している部屋に上がる。

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ここ(下の写真)から部屋に上がるわけ。玄関というものは本来ここ。
表棟と裏棟(座敷や茶の間,台所が有る)の繋ぎ部分を玄関として取り込んでいる。

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分かりにくいと思われるので、家の見取り図を載せておこう(下の図)。

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通常の家財道具を中心とした展示品と「たけはら国際芸術祭2011」の作品が並べられている。

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奥座敷へ。

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中庭の様子。

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座敷から中庭を見ることが出来る。

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昔の家主の愛用していた品の数々が展示。

先々代・松阪昭二氏(明治10~昭和37)の愛用品。
松阪昭二氏は猶存と号し、書は頼山陽の研究家で、和歌も詠み、絵も巧みであったとのこと。

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蟹・・・。何だろうこれ??

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生活用具も展示。

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下の写真の左から、電気ストーブ(昭和初期のもの),レコード箱,電気蓄音機(昭和初期のもの)。

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長火鉢やつのだる(下の写真)。

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炊事場へ。

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たけはら国際芸術祭2011」の作品が面白い。

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針金細工で、絵のデッサンのような表現をしている。

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いいな、これ。

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庭へ出てみよう。

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庭に「頼山陽遺愛の台柿」(下の写真)。

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頼山陽が、「台柿」(国内でも珍しい品種の渋柿で、底部に台がある)を、伊丹市の醸造元で開かれた酒宴で食し、そのあまりの美味に驚き、その感想を詩文「柿記」に託したということから、平成20年5月3日、「頼山陽」ゆかりの竹原市が、「柿衛文庫」の庭園に残る2世の「台柿」の苗木を譲り受け、ここに植えたらしい。中央にある小さな苗木がそれ。

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庭から「普明閣」が見える(上の写真)。

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さて、出ますか・・・。入ってきた玄関の土間へ向かう。

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それにしても重厚な屋敷だな~。

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『西方寺・普明閣』

(紹介サイト→http://www.takeharakankou.jp/guide/see/saihoji.php

本町通りの中央、長い石段を登った所に有る。
先程の松阪邸の庭から見えていた「普明閣」も有る。

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自転車を駐輪して・・・ではなく、担いで階段を登る。普通の人はしないでしょう。MTBに乗る人間の性(さが)。今日は小径車だけどね。
この石段、映画「時をかける少女」の冒頭に出てくる。西方寺はあの映画のロケに使われたようだ。

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階段を登ったところ、山門の前からの眺望。良いね。

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山門(下の写真)。

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山門前に駐輪。

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山門をくぐって・・・

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境内へ。下の写真の堂が本堂。

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もとは田中町に在る禅寺で地蔵堂の隣に有った。現在地には、元・禅寺の妙法寺が有り、慶長7年(1602)に火災で焼失し、翌年、妙法寺跡のこの地へ移り、浄土宗に改宗した。
境内には、本堂、鐘楼、庫裡、法界地蔵堂、山門などの建築が建ち並んでいる。境内前面には、一見城郭を思わせるような壮大な石垣があり、錚々たる寺観を呈している。入母屋造、一重、平入、本瓦葺、前面と側面前方を吹抜とし、側柱には太い敷桁を載せるだけの簡単な構造をしており、江戸中期のこの地方の仏堂の典型的形式をもつ、貴重な建築である。須弥檀は禅宗様式となっている。

ここまでの無事のお礼と、これからの無事を祈願。

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「守護堂」に重要文化財の木造十一面観音立像が納められているらしい(下の写真)。年に一度の御開帳とのことで、拝めません(-_-)

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本堂を背に、境内からも町の眺望をのぞめる。

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でもまだ目線は低い。
更に高い所へ向かって石段が有る(下の写真)。「普明閣」へ向かう石段だ。

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石段の途中に、

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小さな洞穴が有って、その奥に石仏が祀られている。

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引き続き石段を登っていく。桜が綺麗だ(この日は4月9日ですので・・・)。

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西方寺は桜の名所でも有るらしい。

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「普明閣」が見えてきた。

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西方寺本堂横の高台に位置する普明閣は、宝暦8年(1758)の建築。西方寺の地に妙法寺があった頃の本尊である、木造十一面観音立像(県重要文化財)を祀っている。方三間宝形造、本瓦葺の二重屋根、舞台作りとなっており、京都の清水寺を模して建立された。
建立年代としては新しいものであるが、特異な屋根形式と優れた細部意匠を持っている。
町のどこからでも望むことが出来、竹原市の景観の中心となる重要な建築物となっている。普明閣に登れば、竹原の町を一望することが出来る。

だからこそ、登らんとね。

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桜が間近に。

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町に向かっていくような枝。

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普明閣でも手を合わせる。

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普明閣からの竹原の町の眺望。

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なるほど・・・言われた通りだ。

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南の方角(下の写真)。

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海まで見える(下の写真)。

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↓パノラマ写真。クリックすると別ウィンドウで拡大されます。

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普明閣の下に降りる。下から普明閣を仰ぎ見る(下の写真)。

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下にも桜が満開。

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町の眺望と桜の花を大いに楽しめた。

『初代郵便局跡』

西方寺の石段の下に位置する。

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明治の郵便事業創業当時のものらしい。勿論今は使われてはいない。

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古~~い型のポストが置いてある(下の写真)。

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このポスト(書状集箱)は明治4年(1871)郵便事業創業当時使用していたものと同じ型のものである。この周辺が重要伝統的建造物群保存地区であるため、その景観に合わせて設置したものである。
このポストは他のポストと同様に取り集めを行っているので利用可能である。

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『吉井邸』

西方寺の石段の向かいに有る。

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屋号を「米屋」といい、代々続いた豪商の家。竹原では現存する最古の商家であり、主屋は1690(元禄3)年の建築。たくさんの貴重な古文書を収蔵している。

土蔵では喫茶店を営業しているようだ。

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『歴史民俗資料館』

(紹介サイト→http://www.takeharakankou.jp/guide/see/rekishiminzoku.php

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江戸中期、頼春水の師・塩谷道碩(1703~1764)と云う医者がいました。彼は儒学者でもあり、医業のかたわら、多くの子弟に学問を教えていた。明和元年(1764)62才で病没し、照蓮寺に葬られた。道碩にはあとをつぐものがいなく、門人である頼春水、春風らがその志の絶えるのを憂い、道碩の没後30年、寛政5年(1793)その家を「竹原書院」とし、邑人の学問所として、読書会や、詩、和歌の会などを行い、竹原文化の発展に寄与した。
昭和4年(1929)、現在の建物を町立竹原書院図書館として建設、5年(1930)4月1日開館し、昭和47年(1972)1月31日までの42年間、竹原の文化活動の拠点としての役割を果たしてきた。図書館の移転後、空家になっていたが、昭和55年6月竹原市歴史民俗資料館として生まれかわり、竹原郷土文化研究会を中心とする市民各位より寄せられた「文化」「歴史・民俗」「塩業」「産業」などの資料が収蔵されている。

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昔の洋風の建物ですな。

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駐輪して中へ。ホールを抜けて奥の受付へ向かう。

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1階奥は産業関係。塩と酒造関係ですな。

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上は釜屋の模型。塩浜で“かんすい”(濃い塩水)を採った後、釜で煮詰めて結晶を作り、塩となる。

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正保年間(1644年~)正徳年間頃(~1715年)にかけ、大新開、多井新開等が開かれた。大新開は広島藩の藩営工事によって耕地拡大を目的として干拓された。しかし土地が低く潮気が有って作物が出来ず、代わりに塩田を造ることにした。
赤穂から技術者を招いて塩浜1軒を試作し、良質の塩を作ることに成功。慶安3年、31軒を築造した。
この塩浜が予想外の利潤をあげたことから、竹原下市豪農・商人をはじめ領内の港町・在町や城下広島の商人まで塩浜経営を希望するようになった。そのため承応元年(1652)新たに新開のなかに新浜67軒が増築され計98軒となり、塩田面積は約60町歩になった。
塩田の発達竹原塩田は芸備地方での最初の入浜式塩田と言うばかりでなく、この入浜技術は備後国松永(今の福山市)・富浜(今の御調郡向島市)・伊予国波止浜(今の愛媛県今治市)・多喜浜(今の愛媛県新居浜市)などに伝わった。
延宝8年(1680)に赤穂塩が竹原の桝目(大俵5斗1升、小俵1斗5升)を採用していたことからも、竹原塩が塩の流通でも中心的地位であったことがうかがえる。信州(長野県)では塩が運ばれてくると「竹原がきた」と言われるほど、竹原は塩の代名詞になっていた。

各酒造家の樽が並んでいる。

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2階は農耕関係。

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ガラス内の展示品は、一年の稲作の作業の流れに沿って、使われる用具が並べられている。

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牛を農作業に使うことも有るだろう。その際の鞍ですな(下の写真)。

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この辺はもう収穫したところですな。

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脱穀~~(下の写真は脱穀機)

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実はもう一部屋、2階に展示室が有ったらしいのだが、この時は気が付かず、あとで気が付いた。歴史に関する物が展示されていたらしく、そこが一番大事なところ・・・orz残念。

『旧佐倉邸』

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ここはちょっとスルーしちゃいました。

そして本町通りの北端に着く。

『胡堂(恵比須神社)』

(紹介サイト→http://www.takeharakankou.jp/guide/see/ebisudo.php

本町通りの北端。突き当りに建っている。

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寺山の麓、上市、中町、下市の一筋の通りの最も北に位置し、ここから直角に折れて、松原町になる。地形から見るとこの通りは、古くは寺山と川にはさまれ、しかも上・下で挟まれている。この挟まれた部分に、この胡堂と塩浜の守護として信仰されていた地蔵堂(後述)が有る。

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胡堂の建築は、前室付、一間社流造りで、竹原の小祠中、最大の規模を持っており、最も古く、江戸時代中期のものと考えられている。いつから祀られたのかは定かではないが、中世の古市からの移行を考えれば、商業の神としてかなり早くから存在していた、と考えられている(最古の棟札は延宝9年のもの=1681再建)。江戸時代中頃になると、三日市で三日、十三日、廿三日の市の日には、塩田用の縄、かますなどを売る人でにぎわっていた。
上市の商業の守護神であり、地蔵堂と共に一種の境界神(テルミヌス神)と考えられたと言える。通りの突き当たりに位置し、街路の見通しを妨げ、その向こうに続く殺風景な田畑を見えなくすることによって、町の雰囲気を高め、まとまりのある空間をつくり出している。
映画 『時をかける少女』でもお馴染みのスポット。

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『照蓮寺』

(紹介サイト→http://www.takeharakankou.jp/guide/see/shorenji.php

「胡堂」に向かって右手の左カーブの道を進むと「照蓮寺」に着く。

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上の写真は境内横の門。
境内正面の山門へは胡堂の裏手の通りから入れる(下の写真)。そちらへ回り込む。

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桜が山門に重なり、綺麗で見事です。

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自転車を駐輪し(今回は置いていく)、石段を登る。

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なかなか豪壮な山門だ。

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門をくぐって境内へ。

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境内にも桜の花が咲いている。

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下の写真が本堂。

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もとは定林寺と称し曹洞宗の禅寺で、小早川氏代々の子弟が学んだ寺。
山号は龍頭山。
文禄の頃(1592~1595)寺は荒廃していたが、慶長8年(1603)僧浄喜が真宗に改宗、僧恵明(獅絃)、恵範(片雲)等のすぐれた学門僧が輩出した。江戸中期から後期にかけて竹原の文化センター的役割を果たしており、当時の文化人の遺墨も数多く残っている。
本堂は元文2年(1737)の再建で、周囲に広縁を設け、広い畳敷の三つに区画した外陣、一段と高い内陣、粽付の丸柱と組のもの、金箔押しの透かし彫の欄間など、広島県の代表的な浄土真宗本堂といえる。
経蔵は享保2年(1717)の建立で、方三間堂、宝形造、本瓦葺。鐘楼門(明和3年,1766)。庫裡、裏門、水屋が配置されています。庫裡の裏には、室町期の築庭の県下でも指折りの名園「小祇園」が有る。

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再び、ここまでの無事のお礼と、これからの安全を願って手を合わせる。

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本堂の廊下に吊るされた鐘(下の写真)。

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銅鐘(高麗鐘)(国重要文化財)
小早川隆景が幼時の学問所であった照蓮寺に寄進したと伝えられている。
陽鋳の銘文の「伐昭大王」は高麗第4代光宗のことで、「峻豊四年」は光宗の14年(963)にあたる。
我が国に伝来する紀年銘の有る高麗鐘としては3番目に古い。

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さて、本町通り界隈はこれで終わり。
胡堂へ戻り、そこから中ノ小路へ向かう。

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『胡堂→中ノ小路へ』

胡堂の突き当りを左折(下の写真)。

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通りの名は分からないが、良い雰囲気だ。

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すぐ目の前の突き当り(上の写真)を左折し、中ノ小路に入る。

『中ノ小路・酒蔵交流館』

(藤井酒造・酒蔵交流館の公式サイト→http://www.fujiishuzou.com/index.htm

中ノ小路沿いに有る、藤井酒造のもの。

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江戸末期に建てられた酒蔵の一角を改造した酒蔵交流館は、太い柱や天井のはりが130年余りの伝統を物語り、ほんのりと酒の香りが漂っている。酒蔵の一角を情緒たっぷりのコミュニケーションスペースとして開放。酒蔵ならではの天井が高く落ち着いた雰囲気のある空間に椅子とテーブルが並べられ、数種類の日本酒が無料で試飲できるほか、本格手打ち蕎麦を楽しめるそば処も有る。

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酒は好きだが・・・前述の竹鶴酒造と同じ理由で、スルー(試飲はしていませんよ~)。自転車が無ければ寄っていただろう。次に自転車無しで訪れた際に入ろう。
尚、内部は暗いので撮影も無し。

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『光本邸・今井正之陶芸の館』

(紹介サイト→http://www.takeharakankou.jp/guide/see/koumototei.php

同じ中ノ小路沿いに有る。

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光本邸は、江戸時代に建てられた「復古館」(後述)の離れ座敷で、後年光本家が居住し、後に竹原市に寄贈された建物である。光本邸内の土蔵を改装してつくられた「今井政之 陶芸の館」では、今井氏が幼い頃から親しんだ瀬戸内海の魚、草花や生き物など自然をモチーフにした作品約30点が展示されている。
現在、陶芸の館では「今井政之・眞正・今井裕之 父子3人展」として今井政之氏の陶芸、今井眞正(長男)氏の彫刻、今井裕之(次男)氏の鍛金・水晶の作品を展示している。

僕と同じく花粉症で苦しむ受付のおばさんに入館料を渡して中へ。
すぐ右手に土蔵が有り、アートギャラリーになっている(下の写真)。今井正之という陶芸家のアートギャラリー「今井政之 陶芸の館」だ。

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「今井政之 陶芸の館」の中へ。

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鶴ですね。

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魚と鳥が好きなようですな。

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ふくろうだ(◎´∀`)ノ

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2階へ上がる。

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2階は今井正之氏の息子、眞正(長男)氏の彫刻、裕之(次男)氏の鍛金・水晶の作品が展示されている。

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お父様とは作風が違いますね。共通点は題材に魚と鳥が多いことか。

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土蔵から出、座敷のほうへ上がる(下の写真)。

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中庭(下の写真)。

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奥座敷(下の写真)。

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ここでも「たけはら国際芸術祭2011」の作品が置かれている。上の写真の左下の大きな四角いものはキャンバス。

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エアコンが無ければ・・・(-_-)

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すだれを通した庭の様子も良いね。

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「中ノ小路」の次は「大小路」へ。

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『大小路・春風館・復古館』

(春風館・復古館の紹介サイト
   →http://www.takeharakankou.jp/guide/see/shunpukan.php

細い道に雰囲気の有る建物が並ぶ。

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「復古館」(下の写真)と「春風館」が建ち並んでいる。

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残念ながら内部は非公開。

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「春風館」
頼山陽の叔父、頼春風の家。
春風(1753~1825,通称松三郎,名惟彊、字千歳)は大阪で医学と儒学を学び、安永2年(1773)帰郷し医業を開業した。安永末年(1780)には塩田経営に乗り出し、天明元年(1781)には春風館を建築。春風は家業のかたわら、学問にも力を入れ、町の子弟の教育にあたり、寛政5年(1793)には「竹原書院」の設立に努力し、竹原の文化の向上に尽力した。春風は兄春水や弟杏坪の出世と活躍の影で始終竹原にあたって家業を守り、春水没後その嗣子聿庵の後見役となり、藩から七人扶持を与えられ、御医師格となった。
建物は天明元年建築のものが安政元年(1854)に焼失し、安政2年(1855)再建された。長屋門と玄関構えをもつ武家屋敷風の建物だけがドマを持っている。奥に祠堂として茶室を持ち数奇屋風の意匠に統一され、茶人不二庵の設計と伝えられている。

「復古館」
頼春風の養子である小園は、春風館の西側に隣接して、「兼屋」と称し、安政6年(1859)に三男の三郎を分家、独立させた。
これが復古館の主屋の建物で、春風館と同じく、茶人不二庵の設計によるものと伝えられる木造切妻造二階建、本瓦葺の数奇屋建築である。 大小路の通りに面した店棟は、明治16年の建築で、入母屋造二階建で、一階部分に広い土間をとり、店の間には「ぶちょう」(あげ戸)がそのまま残っている。みせ棟から母屋棟への空間がつぼ庭となり、その二棟をつなぐ玄関の間によりH型となっている。母屋の座敷より縁側で囲まれた庭の北側に、揚げ縁でつながれた茶室(祠堂=明治37年建築)が有る。 敷地内には、幕末から明治にかけて酒造業を営んでいた頃の臼場・米蔵・室蔵・新座敷(現光本邸)が配されている。

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下の写真の突き当りは本町通りになる。本町通りよりも大小路のほうが落ち着いた雰囲気だな。

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次は大小路の一つ南を並行して走る道「板屋小路」へ。

『板屋小路』

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緩やかにカーブした細い路地に昔の屋敷が建ち並び、こちらも良い雰囲気だ。

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通り沿いには特に観光スポットは無い。

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ここは通りの雰囲気を楽しむ場所だな。大小路よりもこちらの方がやや庶民っぽい生活感が有る気がする。

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下の写真の突き当りが本町通りになる。

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『栄町通り』

県道75号から地区へ入る道。地区の南に有る。

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『鳥羽町通り』

前述の旧笠井邸の前を通る、本町通りの南端で本町通りを出合う通り。下の写真の右手の建物が旧笠井邸。左へ向かう道が本町通りだ。

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さて、そろそろこのポタリング記事も終わりに近づいた。
最後に田ノ浦通り沿いを紹介。

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『田ノ浦通り』

本町通りの脇から入る。下の写真の向こうの突き当りが本町通り。

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本町通りとは違い、ここには現代の生活が有る。電信柱や電線も登場(下の写真)。

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『地蔵堂』

(紹介サイト→http://www.takeharakankou.jp/guide/see/jizodo.php

田ノ裏通り沿いに有る。

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.慶長7年(1602)、下市村の大火により焼失したが、その後代官鈴木重仍により再建され、以後塩浜の守護として信仰された。上市にある胡堂とともに、近世の町づくりの境界神としても貴重な遺構である。
現在の建物は昭和2年に建築されたものになる。境内には、竹原の発展に貢献した鈴木重仍、田窪藤平、小山季興の石碑が見られる。

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中に安置された地蔵。石仏である。

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『長生寺』

(紹介サイト→http://www.takeharakankou.jp/guide/see/choseiji.php

最後に「長生寺」。
ここの石段では、自転車を担いで登っちゃう。

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西方寺,照蓮寺に続き、ここも桜の花が綺麗だ。

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ここの山門も豪壮だ。

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山門の前に自転車を駐輪して境内へ。

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山門は鐘楼台にもなっているのか。

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本堂(下の写真)。

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天正15年(1587)小早川軍に敗れて竹原にのがれていた伊予の河野通直が病没したのをいたみ、小早川隆景が建立し、寺領として二百石を寄進して開山。正保元年(1644)には福山の僧快辺が再興して真言宗となった。
現在の本堂は昭和37年(1962)の建築で、境内には金毘羅社、大師堂、庚申堂が有る。
山号は不老山。

長生寺に不老山の山号・・・。なるほどね。
またまた、ここまでの無事を感謝し、家に着くまでの無事を祈願。

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境内の横手に社も有る。神仏分離に引っ掛からなかったようだ。

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下の写真の右下に犬のお尻が写っていますが・・・物凄く吠えられました~(^_^;)

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20110409ride_14 物凄い剣幕で吠えられるので、ちょっと落ち着いて撮影は出来ませんでした。犬は大好きなんですけどね~。全然伝わらないようで・・・(-_-;)
で、ちょうど住職(いや、その息子さんかな?)が犬の吠える声も有ってか外に出て来られたので、久しぶりに(8年ぶりに)ご朱印を頂いた(右の写真)。西方寺ではご朱印が頂けそうな庫裏の雰囲気ではなくて諦め、照蓮寺ではご朱印はやっていなくて自分で押すスタンプだったので、遠慮。ようやく長生寺で貰えたわけ。これまでのサイクリングでも朱印を貰ったことが無い寺社を巡ったことがたま~に有ったが、朱印帳は持って出ないので貰わなかった。ちなみに私ですね・・・近畿周辺と四国の殆どの(ご朱印を頂ける)寺社・霊場は巡ってしまっているんです。なので、サイクリング記事で登場する寺社の殆どは一度は参拝したことが有ります。だから朱印帳を持って出なかったんです。今回、竹原は初めてだったので、久しぶりに朱印帳を持って出た次第。朱印料は今でも300円が相場なのかな~、と不安に思い、ネットで事前に調べておいたりしてネ。
寺社仏閣巡りを盛んにしていた頃にブログをやっていたら、霊場巡りのブログになっていたでしょうね。毎週たくさんの寺社の写真とご朱印が掲載されたりして・・・。頂いたご朱印の数は1000を越えているな~。ご朱印帳は36~37冊くらい有るし・・・。ご朱印は記念スタンプではないのですし、別に自慢するようなことではないんですけどね。

話しがそれるんですけど・・・、その当時、ご朱印を頂いた寺社を一応記録しておくため、パソコンのFile Makerに寺社名,山号,宗派(神社なら祭神),住所等をデータとして打ち込んでいました。当時はまだWINDOWSマシンが無く、MACを使っていて、それは宅録のシーケンスでも使っていました。で、今回長生寺で朱印を貰ったでので、データを打ち込もうと、久しぶりにMACを立ち上げようとしたところ・・・・うんともすんとも起動せず・・・・。これが過去記事「ニュー・プライベート・スタジオ」の冒頭で書いた、MACの故障発覚だったわけです~。
これがきっかけで、宅録環境再構築のためにサイクリング記事の執筆が大幅に遅れ、サイクリングそのものもやっていないという状況に至った次第。
まぁ、その代わり、眠っていた音楽魂が目を覚ましたし・・・。自転車も音楽も両立出来たらいいな~。
(あ・・・そうそう、地道に打ち込んだ寺社のデータも完全に消えたし、WINDOWSマシンでBackupデータを読むことは出来ないので、これも最初から作らないと・・・(-_-;))

話しは戻って・・・・。
これで竹原の町並み保存地区のポタリングは終了。時刻は12:30頃。
幾つかスルーした所も有るし、見落とした所も有るし、海の方へは行っていないし、時刻もまだまだ全然早いが、明日も走りたいので(明日はもう少しちゃんと走ろう)これで帰ることにする。今帰路に着けば、夕方には帰宅している筈だ(ちなみに翌日走った内容は「玉川・桜ポタリング 2011.04.10」参照)。
地区から離れて竹原駅へ。往きのルートをそのまま逆に辿る。

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竹原駅に戻ってきた。あっという間。

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自転車を輪行袋にパッキング。
あとは以下のようにして大阪市内へ・・・。

竹原   
|  呉線(三原行)
|  13:02-13:39[37分]
| (下の写真の左上)
三原 (下の写真の右上)
|  こだま742号(新大阪行)   
|  14:05-16:05[120分]
| (下の写真の下段)
新大阪

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新大阪駅に着いたら、幾つかの路線を乗り継いで最寄り駅へ・・・。
最寄駅に着いたら自転車を組み立て、僅かな距離を走り、16:40に無事帰宅。早めの帰宅で予定通り。

こうして、安芸の国の小京都・竹原の雰囲気を味わい、充実したポタリングになった。江戸時代~近世の頃へちょっとタイムスリップされた感じ。保存地区だけに町の景観が綺麗で、品も感じられた。和の雰囲気の中の「たけはら国際芸術祭2011」のアートが有ったのも良かったし・・・。それでいてわざとらしくない所も良かった。おまけに桜の花も見頃でラッキーだった。唯一、ここのメインの産業でも有る酒造関係に立ち寄らなかった点が心残りだったが、“自転車無し”でまたここを訪れた時には寄ってみよう。その際には見逃したスポットも今度は行ってみようと思う。
自転車無しと書いたが、地区内は自転車無しで充分余裕で回りきれる広さだ。竹原駅と地区との間も徒歩で問題無い距離。サイクリング記事なので自転車を使用することを否定するつもりはないが、徒歩のほうが回り易いかもしれない。酒造関係のことを考えれば特に・・・。
自転車であれば、より“走る”楽しみを味わうために海のほうをポタリングに加えても良いかも知れない。それもまた今後のプランにストックしておこう。・・・その前にすぐ近くの「しまなみ海道」「とびしま海道」を経験しておくべきだろうけど。
何にしても、トータルで満足出来るポタリングだった。雨の中を出発した甲斐が有った。
 

コース概略/自宅→○○線・△△駅~(輪行)~□□駅・▽▽線・◇◇駅~(輪行)~新大阪駅・JR山陽新幹線~(輪行)~三原駅・JR呉線~(輪行)~竹原駅→あいふる316商店街→本川右岸一般道→新湊橋→頼山陽銅像→県道75→田ノ浦通り→地蔵堂→本町通り(松阪邸,初代郵便局跡,胡堂)→中ノ小路(酒蔵交流館,光本邸)→大小路(復古館,春風館)→本町通り→西方寺→本町通り(歴史民俗資料館)→照蓮寺→中ノ小路→大小路→阿波屋小路→板屋小路→神名掛町通り→本町通り→笠井邸→田ノ浦通り→長生寺→田ノ浦通り→県道75→新湊橋→本川右岸一般道→あいふる316商店街→竹原駅・JR呉線~(輪行)~三原駅・JR山陽新幹線~(輪行)~新大阪駅・▽▽線~(輪行)~◇◇駅・○○線・□□駅~(輪行)~△△駅→自宅
(竹原市内でも実際に通った順番を記した)

走行距離/9.61km
走行時間/0hr53min
平均速度/10.84km/hr
最高速度/30.91km/hr
Small Bike積算距離/1740km
全Bike積算距離/20367km

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Comments

建物、雰囲気があって懐かしい感じがします。いいなァ、ここの街並み。
展示してある様々なアートも良い感じ(^-^)
針金細工とか面白いですね。
昔の道具…家電系の道具や農作道具も不思議な感じ。
現代人の私にとっては逆に新鮮な物に思えたり。

この頃はまだ桜が咲いていたんですね。
5月中旬頃に桜開花していた北海道も、もうとっくに散ってしまいました~(・з・)

« 投稿: MariRose  2011年5月31日 (火) 21時08分

MariRoseさん>
あ~、とうとう北海道でも桜が終わっちゃいましたか~。
ブログには桜が咲いていますが、現実のこちらは梅雨入りで、最近は雨ばかりです。
北海道は梅雨が無い分、過ごし易そうですね。

和と現代アートが調和していました。
不自然ではなく良い感じでした。
偶然良いタイミングでした。

« 投稿: Katze  2011年6月 1日 (水) 13時21分

瀬戸内の海岸に沿う道

竹原の整然とした町並み

いいですねー

こころに響くご馳走です(^o^)

« 投稿: 輪夢(rimu)  2011年6月 3日 (金) 18時22分

輪夢さん>
こころに響くご馳走です>
うまい表現ですね(^^)b

竹原の町は、外の現代の街とは違った空間でした。

今度は海沿いを走ってみたいです。

« 投稿: Katze  2011年6月 5日 (日) 18時36分

 






 

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